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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「我並びに我が弟子」 「まことの時」に戦う人が仏に

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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3  講義
 苦難は、人間を強くします。
 大難は、信心を鍛えます。
 難に挑戦して信心を鍛えぬけば、わが己心に「仏界」を現していくことができる。
 大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。
 日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。
 その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない「強靭な信」であることとそが成仏を決定づける。
 この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節は、あまりにも有名です。
 「SC285E」
 いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはならない。諸天の加護がなく、現世が安穏でなくとも、「嘆きの心」にとらわれではならない。不退の心で信仰を貫く人が、真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指導であり、永遠の指針です。
 本章では、この一節を中心に、日蓮仏法における信心の本質を学んでいきます。
4  師弟の精髄を明かした一節
 この御文の冒頭に「我並びに我が弟子」と呼びかけられています。
 「開目抄」では、日蓮大聖人御自身について、根源悪である謗法と戦う「真実の法華経の行者」であり、日本を法滅と亡国の危機から救う「日本の柱」であり、凡夫成仏の大法を顕して長く末法の闇を照らす「末法の御本仏」であられることが明かされます。
 そして大聖人は、「SC286E」と御覚悟され、「SC287E」との大誓願を獅子吼されて、御自身の御精神の核心を示されたのです。
 この御文と対照すれば、「我並びに我が弟子」の呼びかけで始まる一節は、まさに、師である大聖人の御精神と呼応する信心を、弟子たちに教えられていることは明らかです。
 ”わが弟子たちよ、師と同じように立ち上がれ!”
 ”師子王の子らしく、疑いと嘆きを打ち破れ!”
 ”まことの時に信心を忘れる愚者になってはならない!”
 「大聖人とともに」と、師と同じ決意で立ち上がり、広宣流布に邁進してこそ真の弟子です。誰人であろうと、大聖人と同じ心に立ち「SC288E」となった時、実は、すでに成仏への道は広々と開かれているのです。後は、その大道を歩み通せば、「自然に」成仏に至るのです。
 仏が説いた法は、万人の生命の中に仏の生命があることを明かしております。万人の胸中にそれまで眠っていた「仏知見」を開き、示し、悟らせ、入らしめる。万人を仏にしてこそ仏の出世の本懐が成就することは、法華経にも明確に説かれています。自分と同じく万人を「偉大な人間」にする。それが仏教の本質です。
 ゆえに仏教は、どこまでも師と同じ心で戦いゆく弟子の育成が眼目となる。仏教は、「師弟の宗教」にほかならないのです。
 「天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と仰せられている日蓮大聖人の赫々たる魂の炎が、全門下の胸中にも灯されてこそ、「師弟不二の宗教」は完成するのです。その意味で、「我並びに我が弟子」との呼びかけに、わが門下よ、二陣、三陣と続きゆけ」との思いが込められていると拝することもできます。
5  不惜身命が師弟の絆
 「我並びに我が弟子」との仰せ、は拝するごとに金文字のように鮮烈に浮かび上がってきます。
 普通の宗教者であれば、「わが弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかける御心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦いぬいていかなければなりません。
 そのことを教えられているのが「SC289E」の一節です。
 もちろん、命をも奪われようとする大難の渦中でこその仰せです。私たちにとってみれば、戦前の軍部権力による創価教育学会の弾圧の際に、牧口先生、戸田先生とともに投獄された幹部たちがこの御聖訓に背いて退転し、権力に屈してしまった事実を忘れてはならない。
 その獄中で戸田先生は、書簡にこうつづられました。
 「決して、諸天、仏、神の加護のないということを疑ってはなりませぬ。絶対に加護があります。現世が安穏でないと嘆いてはなりませぬ」
 まさに、「開目抄」の精髄を込めた内容です。
 一個の人間として、また、一人の信仰者として、どう生きぬくのか。最極の法に生きぬき、不惜身命で戦いぬく信心のなかにこそ、生命が鍛えられ、金剛不滅の成仏の境涯を確立できることを忘れてはならないのです。

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