Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十五章 転重軽受 全人類救う宿命転換の仏法

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 疑つて云くいかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王・験偽の鏡は現在の罪を顕わす仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥洹はつないおん経に云く「善男子過去にかつて無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋ぎょうじょうしゅうる・衣服足らず・飲食おんじき麤疎そそ・財を求むるに利あらず・貧賤の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云、此の経文・日蓮が身にあたか符契ふけいのごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易わくひきょうい等云云、法華経に云く「軽賤憎嫉きょうせんぞうしつ」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋ぎょうじょうしゅうる・又云く衣服不足えぶくふそくは予が身なり飲食麤疎そそは予が身なり求財不利ぐざいふりは予が身なり生貧賤家しょうひんせんけは予が身なり、或遭王難わくぞうおうなん等・此の経文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病こんびょうかけざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云
2  通解
 ――疑って言う。どうしてあなたの流罪や死罪などが過去世の宿習であると分かるのか。
 答えて言う。銅鏡は姿形を映す。秦の始皇帝が用いた験偽の鏡は現在の罪を映し出す。仏法の鏡は過去世に積んだ宿業を現し出す。
 般泥洹経には次のように説かれている。
 「善き弟子たちよ。過去世に無量の罪や種々の悪業を作ったとする。その罪の報いは、あるいは人々に軽蔑されるあるいは醜い容姿となる。衣服も不足し、食べるものは粗末で、財を求めても得られず、貧しく賎しい家や邪見の家に生まれる。あるいは国主による難に遭う。そして、その他さまざまな苦しみの報いを受けるであろう。現世において、苦しみの報いを軽く受けるのは、正法を護持する功徳の力によるのである」
 この経文は、日蓮の身にまったく符合している。これによってなぜ難に遭うのかという深い疑いがとけた。千万の批判も無意味である。経文の一つ一つを、わが身に引き合わせてみよう。
 「人々に軽蔑される」とあるが、法華経には「軽んじ、卑しめ、憎み、嫉んで」(譬喩品)と説かれている。私は二十年あまりの間、軽蔑されてきた。「あるいは醜い容姿となる」、また「衣服も不足し」とは私自身のことである。「食べるものは粗末で」とは私自身のことである。「財を求めても得られず」とは私自身のことである。「貧しく賎しい家に生まれる」とは私自身のことである。「あるいは国主による難に遭う」との経文をどうして疑うことができるだろうか。
 法華経には「たびたび追放されるであろう」(勧持品)と説かれる。この般泥洹経には「その他さまざまな苦しみ」と説かれる。
 「正法を護持する功徳の力によるのである」とは、摩訶止観の第五の巻の「心が定まらない状態で善を修める修行の力は微弱であり、宿業を転換することはできない。今、止観を修行すれば、自分の普通の状態の心身について、また心身の病について、その両方をいずれも欠けずに観察し把握することになるので、生死流転の輪を動かし、宿業を転換することができる」の文にあたり、また、摩訶止観の「行学に懸命に励めば三障四魔が紛然と競い起こる」の文にあたる。
3  御文
 我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠でんぱた等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頸をはねること其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ

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