Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 僣聖増上慢 三類と戦う「真実の師匠」を求めよ!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 SC229E
2  通解
 六巻本の般泥洹経には「究極のところを見ないとは、かの一闡提の者の究極の悪業を見ないということである」とある。妙楽は「第三の者(俗聖増上慢)がいちばん悪質である。よりいっそう、正体を見抜きにくいからである」と述べている。
 目を閉ざしている者や、片目で見る者、邪な目で見る者は末法の初めに出現する三類の強敵を見抜くことができない。わずかでも仏眼を持った者が、これを知ることができるのである。法華経に「国王や大臣、高僧や社会の有カ者たちに向かって」(勧持品)とあり、法華文句東春には「権力者に向かって正法を誹り、その行者を誹謗する」とある。むかし像法時代の末には、護命や修円らが書状を朝廷にささげ、伝教大師を無実の罪で訴えた。今末法の初めには、良観や念阿らが偽書を作って将軍家にささげている。これこそまさに三類の仏敵ではないか。
3  御文
 仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん、そもそもたれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし

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