Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 誓願 大難を越える生命奥底の力

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟しゆいするに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙ごうしゃの経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ
2  通解
 ――日本国でこのこと(仏教の諸宗が謗法の教えを説いており、人々を悪道に堕とす悪縁となっていること)を知っている者は、ただ日蓮一人である。
 このことを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠からの難、さらには国主による難が必ず襲ってくるであろう。言わなければ、慈悲がないのに等しい。このように考えていたが、言うか言わないかの二つについて法華経・涅槃経等に照らして検討してみると、言わないならば、今世には何事もなくても、来世は必ず無間地獄に堕ちる、言うならば、三障四魔が必ず競い起こる、ということが分かった。
 この両者のなかでは、言うほうをとるべきである。それでも、国主による難などが起きた時に退転するぐらいなら、最初から思いとどまるべきだと、少しの間思いめぐらしていたところ、宝塔品の六難九易とはまさにこのことであった。「我々のような力のない者が須弥山を投げることができたとしても、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って、劫火の中で焼けることはなかったとしても、また、我々のような無智の者がガンジス河の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることができたとしても、たとえ一句一偈であっても末法において法華経を持つことは難しい」と説かれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強い求道心をおこして、断じて退転するまい、と誓願したのである。
3  講義
 人間を鍛え、強くし、豊かな人格をつくるのは、「精神の力」です。確固たる「哲学」と決定した「信念」こそが、偉大なる人間の風格をつくっていく。
 「開目抄」は、いわば「最深の哲学」と「最強の信念」を説く書です。
 「最深の哲学」とは、全人類救済の慈悲の極理たる凡夫成仏の大法が説き明かされているからです。
 日蓮大聖人は、無常と思える凡夫の生命に常住の妙法を洞察され、その妙法の力を一人一人の人間に現していく道を確立された。私たちはそこに、全人類に真に希望と勇気を与えうる最も深き哲学を拝することができる。
 「最強の信念」とは、全人類を救いうるこの大法を、いかなる障魔が競っても弘めゆくことを誓う、広宣流布への偉大なる信念です。
 その根底には、大法を惜しむ御心とともに、人間の苦悩に同苦されつつ、人間の限りなき可能性を慈しまれる大慈悲があられることは言うまでもありません。
 本抄の前半では、文底の大法である事の一念三千を、末法流布民衆救済の法として明かされています。その大綱はすでに拝してきました。そして、本抄の後半では、その大法を弘めていく真の法華経の行者は誰かが明かされていきます。すなわち、成仏の根本の「法」を明かした後、その法を弘める「人」へと焦点が移っていきます。
 その後半部の冒頭にあたって、大聖人は、御自身が末法流布に立ち上がられた時、すなわち、いわゆる”立宗の時”に立てられた「誓願」について述べられています。これは末法流布にあって「誓願」がいかに重要であるかを示しています。

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