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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 五重の相対 生命の配果と人生の根本指標

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  講義
 「開目抄」の前半では、後に「五重の相対」と呼ばれる法理が述べられています。本章では、この「五重の相対」の意義について考察し、本抄前半のまとめとしたい。
 「開目抄」で、一切衆生が尊敬すべき主師親三徳がテ―マとされていることについては、すでに考察しました。
 大聖人は、儒教等の中国における思想・宗教(儒家あるいは外典と総称される)、インドの外道、そして内道である仏教の三つについて、それぞれ事実上、多くの人々から主師親として尊敬されている存在を挙げられています。
 そして、大聖人は、それら主師親への尊敬を通して、人々にいかなることが教えられ、また、いかなる生き方がもたらされているかを検討されていきます。人々に確かな生き方をもたらしてこそ、真の意味で優れた主師親と言えるからです。
 こうして「開目抄」では、主師親をテーマにしながら、それぞれの思想・宗教が「いかなる法、いかなる生き方を教えるか」を鋭く問われている。そして、その「法」を問い、「生き方」を問う根本の視点が「生命の因果」なのです。
2  因果は思想・宗教の肝要
 「五重の相対」は、いかなる宗教・思想が現実に人々の苦悩を解決し、ゆるぎない幸福境涯へと至らせることができるかについて、「生命の因果」をどのように説いているかという観点から判別したものであると言えます。
 「生命の因果」とは、「幸・不幸の因果しであり、究極するところは前章で述べた「十界の因果」つまり「成仏の因果」と同じです。
 言い換えれば、「その教えが、どれだけ幸・不幸の原因と結果を根源までたどり、見極めているか」によって、思想・宗教の高低・浅深を問うものです。
 医者が病気を治そうとする時には、病気の原因を見極めて治療にあたらなければ、かえって病気を悪化させることがある。同様に、苦難や不幸を解決するためには、その根本原因を見極め、解決にあたらなければ不幸を助長しかねない。
 原因と結果を明確にすることこそ、宗教・思想の肝要なのです。
 天台大師は、法華経の勝れた点を五つ挙げて、名・体・宗・用・教の五重玄にまとめました。そのうちの「宗」とは、教えの根本、肝要という意味であるが、これについてより具体的に言えば「因果」にほかならない、と指摘しています。(「宗とは、要なり。所謂仏の自行の因果、以て宗と為すなり」「『法華玄義』巻一上、大正383㌻」)
 ここで天台大師が言う因果とは、まさに生命の因果であり、「苦悩する人間の生命(因)が、内なる尊極の可能性を開いて苦悩を乗り越え、何ものにもゆるがない幸福境涯(果)を確立する」ということです。
 また、究極的な悟りの法である「実相」(五重玄では「体」にあたる)は、それ自体としては不可思議で、言語道断・心行所減と言わざるを得ないが、「成仏の因果」と不可分の関係にあることを示している。譬えて言えば、実相は無限定で広大な空間そのもののようなものであり、因果は柱や梁のようなものである。柱や梁によって空間が部屋という形で現れてくるとともに、逆に部屋の空間を形づくらなければ柱や梁とは言えない。(『法華玄義』巻八上、大正33巻780㌻。同巻九下、大正33巻794㌻)
 つまり、その教えが説く「因果」の深さは、その教えが前提とする「悟りの法」の深さに関係している。
 大聖人が弘められた南無妙法蓮華経は、究極の「妙法」と、それに基づく因果である「蓮華」から成っており、この一語で究極の成仏の因果の法を表していると拝することができます。ゆえに、南無妙法蓮華経を一遍でも唱えれば、その一念に成仏の因果が成就するのです。
 諸宗教・思想を見ると、生命の因果の立て方に種々の違いがあります。大聖人は本抄で、その浅深を「五重の相対」によって示され、究極の成仏の因果を末法の人々を救う要法として明かされていきます。では、大聖人の仰せに基づき、五重の相対の内容を述べておきたいと思います。
3  意志と行動で運命を切り開く仏教
 ①内外相対
 まず、「内外相対」です。これは内道である仏教と、仏教以外の諸教との相対です。
 仏教では、自身の幸・不幸を決定する主因が、自身の内にあり、自身が自らの運命の決定権を握る主体者であることを明かしています。それゆえに仏教を内道と言います。
 これに対して、仏教以外の諸宗教を検討すると、まず、自身の幸・不幸に関する因果の法則を認めないものがあります。これにはすべてが偶然だとする偶然論、あるいは自身の努力など関係なく事前に決まっているとする決定論や宿命論、両者の折衷論がある。これらは、インドの外道の始祖とされる三仙の所説です。同様の議論は、現代の諸思想にもうかがえます。
 また、現世に限って一定の因果の法則を認めるが、生前や死後は不可知であるとして探究を放棄するものもあります。その代表が、中国の儒教・道教などの諸思想です。近代科学に基づく合理主義もこれに入るでしょう。
 生まれながらにして境遇の差があるのはなぜか、また、今世で善悪の行いの結果が出ない場合があるのはなぜか、といった疑問について、これでは納得のいく説明ができません。したがって”なぜ生まれ
 てきたのか””なんのために生きるのか”など、人間の実存的な問いかけには答えきれません。
 また、インドのバラモン教・六派哲学などは、三世にわたる生命の因果について説きますが、それも決定論・運命論などに陥っていて、運命を司る神や自然などの外の力に翻弄されるものです。そこには、人間の主体性が著しく制限されています。
 要するに、外典・外道は、因果を説かないか、説いたとしても部分的で偏った因果観にとどまっている――このように結論づけられます。ゆえに、日蓮大聖人は「開目抄」で、インド・中国における諸宗教の祖師たちについて「因果をわきまざる事嬰児のごとし」――因果を知らないことは赤ん坊のようなものである――と指摘されているのです。
 これに対して仏教(内道)では、自身に起こってくるすべての出来事を自己責任でとらえます。
 いわゆる「自業自得」(自らの善悪の行いに対する苦楽の結果を自らが得る)の思想です。
 このように、厳しき因果の理法を自分の問題として真正面からとらえることができるのは、人間の生命の内に仏性という偉大なる変革の可能性と力が本来的に具わっているという真実を知っているからです。幸福になる努力を続けるためには、自分が根源的に幸福になりうる存在であることを知らなければなりません。
 現在の自身の意志と行動によって自身の運命を切り拓くことができるという主体性と責任に目覚めていくのが、仏教、内道なのです。

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