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日蓮大聖人・池田大作

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「久遠の誓願」果たし「本有の生死」を悠…  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
1  斉藤 最後に、日蓮大聖人の御入滅について持察していきたいと思います。
 森中 大聖人は、民掠五年(一二八二年)九月、九年にわたって住まわれた身延を離れて武蔵国の池上宗仲邸に移られ、十月十三日に入滅されました。
2  誓願成就の総仕上げの最晩年
 池田 大聖人の身延時代は、御自身の誓願成就の時期であられたと拝することができます。とりわけ最晩年にあたる、弘安二年(一二七九年)から御入滅の弘安五年までの四年間、揺るぎない大勝利の時を迎えられ、御生涯の最高峰にあられたと確信する。
 斉藤 出世の本懐を遂げることを宣言された「聖人御難事」(弘安二年)では、大鬼神のついたような者たちも、もはや大聖人を迫害することはできなくなったと仰せです。
 池田 諸天善神をも自在に動かされる大境涯です。末法の根源的救済である「一閻浮提広宣流布」に向かっての前進に次ぐ前進、闘争に次ぐ闘争の大人生によって勝ち取られた、究極の大満足の御境涯です。
 人生は、総仕上げの時期が一番大事です。
 戸田先生も「人生の幸不幸は途中では分からない。最後の数年聞がどうかで決まる」と言われました。
 先生ご自身が広宣流布をわが使命として戦いに戦われ、最後の四年間はひたすら願業成就に邁進される最高の人生を生きられた。これが真実の勝利者の姿であると私は思った。
 森中 戸田先生の最後の四年間というと、池田先生が青年部の室長として活躍された時と一致しています(室長の就任は昭和二十九年三月)。戸田先生の誓願であった七十五万世帯の実現へ、大躍進が始まり、その成就がなされた四年間です。
 池田 後継の青年にバトンタッチすべく、広宣流布の盤石な基盤を完成させる未聞の戦いに邁進された四年間であられた。戸田先生の一挙手一投足は「これが広宣流布の師子王だ」と語り示されているようであった。
 人生は、最後が勝負です。最後の数年間が幸福かどうかです。心底、胸中に悠然たる満足感があるかどうかです。
 森中 地位や経済的境遇は、幸福の最終的な基準にはなりませんね。
3  生死の苦を乗り越える「不惜身命の信心」
 池田 そう。仏法の目的は、生死の迷いと苦悩を克服して、胸中に崩れざる確固たる境涯を築くことにある。
 南無妙法蓮華経は、生死の迷いと苦悩を解決する大法です。これは大聖人が御一代の弘教において初めから強調されていることです。たとえば、これまで何度も拝してきたが、「一生成仏抄」の冒頭に明確に示されています。
 森中 はい。拝読します。
 「SB733E」
 〈通解〉――無限の過去から繰り返されてきた生死の迷いと苦悩を止めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず、「衆生本有の妙理(あらゆる生命に本来具わる妙なる真理)」を自身の生命の中に見ていくべきである。
 「衆生本有の妙理」とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば「衆生本有の妙理」を自身の生命の中に見ていることになるのである。
 池田 生死の迷いと苦悩を止めるための法は、衆生の生命に本来具わっている。それが「衆生本有の妙理」である妙法蓮華経です。
 大聖人は、万人がこの妙理を根本として生きていく道を確立してくださった。それが南無妙法蓮華経です。
 南無妙法蓮華経は、この妙理の名であり、また、この妙理を信ずる「信」でもあり、そして、この妙理をありのままに顕現させた生命、つまり仏界の生命の名でもある。成仏の因も果も具わった「因果倶時の法体」です。
 そのうえで、実践の側面から言って重要なのは「信」の在り方です。
 大聖人は一貫して、法を惜しんで身を惜しまぬ信心、すなわち「不惜身命の信心」を強調されています。
 斉藤 人間は、身を惜しむがゆえに、かえって保身や利害にとらわれ、得失や毀誉褒貶に臆病にならざるをえません。
 そのような人間の愚かさを「佐渡御書」では、魚や鳥が命を惜しむゆえに、かえって餌にだまされて捕らえられていく姿に譬えたうえで、こう仰せです。
 「SB734E」
 森中 だれでも、自分の身が惜しくない人はいないと思います。しかし、大事にしようとしても、気がついたら「世間の浅き事」に執着して人生を終わってしまう。
 池田 幸福を追い求めているのに、いつしか、「浅き事」に執着し、真の幸福への道である「大事の仏法」から遠ざかってしまう。そこに根源的な愚かさというべき「無明」の恐ろしさがあります。どんなに優秀でも、無明に敗れてしまえば、仏道修行を完遂することはできないし、人生は敗北です。それどころか、「大事の仏法」を軽んじ、法に背き、やがては法の敵対者となる者も出てくる。
 それゆえに大聖人は、一貫して「不惜身命」「身軽法重」の信心を強調されているのです。大聖人御自身が、不惜身命で生きぬかれ、そして門下にも、不惜身命の信心にしか成仏がないととを教えられています。その御文は多く拝することができます。
 森中 はい。「松野殿御返事」にも、こう仰せです。
 「どんなことをしても、この身はむなしく山野の土となる。惜しんでも、どうにもならない。いくら惜しもうとも、惜しみ切れるものではない。人は長生きしたとしても、百年を過ぎることはない。その間のことは、ただ、一眠りの問の夢のようなものである。(中略)法華経迹門には『我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ』(勧持品)と説かれ、本門には『自ら身命を惜まず』(寿量品)と説かれ、涅槃経には『身は軽く、法は重し。身を死して法を弘む』と説かれている。法華経の本門と迹門の両門も、涅槃経も、共に身命を捨てて法を弘むべきであると説いている」
 池田 永遠から見れば、私たちの一生は、一瞬の出来事のようなものです。だからこそ、限りある一生を真剣に生き、大事にしなければならない。
 そのために「法」を根幹にして生きていきなさいとの御文です。身を惜しまず、法を惜しんで、仏法を求めきっていくところに、わが生命が、妙法と一体になるからです。そこに、成仏という尊極の生き方が可能になるからです。
 森中 「身を惜しまず」といっても、決して、玉砕的に命を投げ出すことではありませんね。
 池田 当然です。「法を惜しむ」とは、法を持つ者を迫害してくる者、法を破る者に対して、「師子王の心」で戦うことです。さらには、法の精神に違背する一切の魔性と「大聖人の如く」戦いぬくことです。
 「法に生きる」生き方とは、まさしく、「魔」と戦い、打ち勝っていく生き方と言ってよい。
 斉藤 「法を惜しむ不惜身命の信心」とは結局、「勇気を奮い起こして悪と戦う信心」ということになりますね。

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