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日蓮大聖人・池田大作

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健康長寿で広布大願の人生を!  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  斉藤 本章では、日蓮大聖人の晩年の御振る舞いを拝していきたいと思います。
 池田 大聖人は、法華経の行者として一歩も退かれることなく、末法の民衆の救済のために全生命を捧げられて生きぬかれました。
 その尊極の御生涯に、おいて、生老病死の問題をどのように受け止めておられるか。また、どのように門下に指導されているか。そして、御入滅はどのような御姿であられたか。これらについて拝察していこう。
 「生老病死」は人類最大のテーマと言ってよい。
 森中 釈尊の四門遊観のエピソードが物語るように、仏教は生老病死の問題を解決するために誕生したと言っても過言ではありません。
2  生老病死は人生の実相
 池田 日蓮大聖人も、「SB727E」と仰せのように、生死の問題こそが出家の最重要の動機であられた。
 人間の幸福、社会の繁栄といっても、生老病死の四苦の解決ぬきには成り立たない。
 ところが、それだけの根本事であるにもかかわらず、生老病死の実相を、直視することすら避けている人々があまりにも多いのが現実です。
 森中 大聖人は、こう仰せです。
 「生を受けてから誰人も死を免れることはできないという道理は、万民が知つてはいるけれども、本当にこれを重大な問題として嘆いている人は、千万人に一人もいないものである」
 池田 生老病死は人生の実相です。実相から逃げることはできないし、逃げていては、決して真の幸福に至ることはできない。
 斉藤 人々が生老病死を直視するのを嫌うのは、それが無常の相を呈しているからではないでしょうか。
 池田 ある意味では、森羅万象が無常です。変化、変化の連続です。宇宙は必ず生住異滅をリズムとし、生命は必ず生老病死を刻む。
 生に驕る人は死の不安を心密かに抱き、若さに驕る人は老いを恐れ、健康に驕る人は病に驚く。生老病死の四苦を免れることはできない。
 しかし、妙法を悟り、永遠の生命を覚知した仏にとってみれば、生老病死は本有のリズムであり、常楽我浄の四徳と香るのです。
 南無妙法蓮華経という根本法を受持して、妙法に生ききった凡夫の生老病死にもまた、常楽我浄の四徳の香りが吹くのです。大聖人がそのように仰せです。
 ここで、そのことを確認する意味でも、具体的に日蓮大聖人が御自身の生老病死について、どのように述べられているかを拝してみよう。
 御入滅の前年である弘安四年(一二八一年)に認められた「八幡宮造営事」には、身延入山以来の大聖人の御病気について述べられているね。
 森中 はい。このように仰せです。
 「この法門を説き弘めてすでに二十九年になる。日々の論議、月々の難、二度の流罪に体も疲れ、心も痛んだからであろうか、この七、八年の聞には、毎年、衰病が起こったけれども、普通に生活してた。しかし、今年は、正月から具合が悪くなった。すでに一生の終わりになったに違いない。そのうえ、年齢は六十歳に至った。たとえ十分の一でも今年は越えることができる可能性があるにしても、この一、二年を越えることは決してあるまい」
 斉藤 御自身の死期を、明確に予見されています。
 池田 戸田先生も逝去の前年に、御自身の死期を「桜の花の咲くころ」と言われていた。そして、そのとおりの季節に亡くなられた。御自身の生老病死を直視されていたのです。
 森中 「生死」という問題は、大変にむずかしい問題ですが、ともかく私たちは、生老病死を直視する決然たる生き方は学びたいと思います。
 池田 さて、大聖人は、三十二歳の立宗から五十三歳で身延に入山されるまでの二十一年間、山に山を重ね、波に波を畳むように連続する大迫害を越えてこられた。そのどの難においても、肉体的、精神的に耐えがたい圧迫があったと拝察できます。
 とくに五十歳からの佐渡流罪においては、過酷な生活環境を強いられました。そのためか、身延入山の当初から、大聖人の体調は必ずしも万全ではなく、在山中、一貫して御病気に悩まされたのです。
 今の御文では、御自身の病気を「衰病」と仰せだが、ほかに「やせやまい」「老病」とも仰せです。
 斉藤 とくに建治三年(一二七七年)の十二月三十日に、「下痢」「はらのけ」の症状が起こりました。翌年の六月の初めには症状が激化しましたが、その時は四条金吾の治療が功を奏したようです。
 しかし、三年後の弘安四年(一二八一年)、大聖人が六十歳の時の正月に重くなり、同年十一月の末からは、食事がほとんど取れないほどに重篤であられたようです。
 森中 身延では、塩が極端に欠乏することがあると御書には書かれています。この点から、あるいはミネラル不足が御病気の長引く一つの要因だったのかもしれません。
 池田 御入滅の年である弘安五年(一二八二年)の正月は少し持ち直されたようだが、二月は短い御手紙も弟子に代筆させるような御病状であられた。
 そのようななかで、二月二十八日には重病の南条時光宛に、愛弟子の病魔・死魔を打ち払うべく渾身の書「法華証明抄」を認められ、日興上人を介して与えられています。じつに大慈悲力の御姿と言うしかない。
 この御入滅の年は、九月の身延出山まで一進一退の御病状が続いたようです。門下に与えられた御自筆の御手紙が、正月の短い数編と「法華証明抄」など、少数しか残っていないことから、大聖人の御体はかなり衰弱されていたと拝察されます。
3  南無妙法蓮華経は師子吼の如し
 斉藤 御入滅については後に拝察することにして、今の御文に明らかなように、老いや病や死に対する大聖人御自身の御姿には、一般にありがちな「あきらめ」とか「落胆」はまったく伝わってきません。
 苦しまれている御様子も、ありのままに伝わってきます。それでいて、絶望や虚無とは一切無縁の悠然たる御境涯が伝わってきます。
 森中 その御心の強さから拝して、大聖人は老いの問題は克服されていたと拝するべきでしょう。
 また、肉体的な衰えや身延の環境から、病気になられることはあっても、どこまでも戦う御心をもち続けられました。
 池田 仏は「小病小悩」という如く、仏になっても苦しみもあります。当然、病気もする。正義であるからこそ、さまざまな障魔の嵐が競い起こる。
 仏になったら障魔が競わない、というのでは仏法ではなくなる。ただし、障魔が競っても、恐れることもなければ、障魔と戦うための知力と行動を尽くしていくことができる。その生命力が仏の大境涯です。
 私たちに即して言えば、病魔を恐れず、また侮らずに、戦いを挑む「強い信心」が仏界に通ずるのです。
 森中 そうすると、信心したから病気にならない、ということではありませんね。
 池田 よく戸田先生が語られていた。
 「病気になるのも自然の道理です。同時に、病気になった体から、病気を治す力も人間には備わっている。ちょうど坂を登った人が、必ず坂を降りるようなものです」
 御書に「SB728E」と仰せです。病気そのものも人生の一つの相である。
 病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。
 まして、「病気になったから信心がない」などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です。門下が病気になった時は、大聖人御自身が、全力で励まされている。
 病気と闘う力の究極が、南無妙法蓮華経の師子吼です。「SB729E」(御書一一二四㌻)との仰せを絶対に忘れてはならない。
 斉藤 先生と対談したプルジョ博士は、こう語っています。
 「本質的には、どこにも病気がないのが健康である、とは断定できません。むしろ、健康とは、崩れやすい均衡状態と、その均衡状態をいつも確立しておこうとする恒常的なダイナミズムとの間の緊張状態であるといえます」(『健康と人生』本全集第107巻収録)
 森中 確かに、健康な人もつねに体内では、さまざまな病原菌と戦い続けていると言えます。その意味では、戦いがなくなれば、それは生物としての死を意味します。
 池田 病気との対決を通して、新たな生命の充実をもたらしてこそ価値創造の人生です。だからこそ、あらゆる障魔と戦いぬく師子王の心が大切になってくる。
 「負けない魂」「負けじ魂」です。だからこそ日々、「信」「行」にわたり、また自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱え、いかなる病魔にも狂わされない強き信心の一念を鍛えていくことが大切なのです。
 大聖人は、富木尼が重病気になった時に、何度も何度も激励を繰り返されていました。勇気を吹き込まれていた。

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