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日蓮大聖人・池田大作

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「一人立つ」弟子の闘争が広布を拓く  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
1  池田 日蓮大聖人は仰せです。
 「SB694E」。「SB695E」
 広宣流布の大願こそ日蓮仏法の核心です。そして、その広宣流布の大願を実現するために立ち上がった、仏意仏勅の教団が創価学会です。
 創価学会の一切の実践も、広宣流布のための実践です。教学も、一人一人が広布への誓いを深め、”広宣流布の闘士”となるための教学です。観念に終わっては意味がない。
 斉藤 はい。私たちも、広布の前進に直結する「希望の哲学」「勝利の哲学」を語りぬいていきます。
 池田 末法の混迷の閣を晴らしていく人間主義の哲学は、ますます、時代の要請になっている。太陽の仏法の哲理の真髄が輝いていく時代に入った。青年のなかから、慈悲と智慧の哲学を語る地涌のリーダーが、さらに陸続と躍り出でくることを願いながら語っていこう。
 さて、いよいよ熱原の法難だね。
2  地涌の義――「一人から一人へ」唱え伝える
 森中 はい。前章では、大聖人の身延入山を機に、各地の弟子たちが「日蓮が一門」「日蓮と同意」の決意で立ち上がり、それぞれ難を呼び起こすまでに闘争を繰り広げたことが語られました。
 池田 そう。大聖人が総仕上げの指揮を執っておられる間、広宣流布の大願に、共に生きる弟子が次々と誕生していった。
 二人、三人、百人と、「本門の弟子」が広がっていったのが、この時期です。
 斉藤 一人からまた一人へ、唱え伝えることが広宣流布であることは第十一章「三度の高名と予言の的中」で強調されました。
 池田 広宣流布の正道は「唱え伝える」ことにあります。まず、最初に立ち上がった一人が、不惜の精神で「唱え」始める。そして、一人からまた一人へと「伝える」のです。それがそのまま成仏の道なのです。
 森中 大聖人がそれを「SB696E」と仰せであることは、幾度か触れてきました。
 池田 広宣流布は、妙法弘通の「地涌の勇者」が次々と誕生するなかで広がるものです。偉大なる決意の一人の真剣な戦いによって、その周囲の人の生命が呼び覚まされていく。目覚めた人が、また次の人を目覚めさせていく。
 地涌の菩薩は、いつか、どこかからやってくるのではない。
 今、眼前にいる人が自他の成仏を確信し、自行化他の実践に立ち上がった時に、地涌の菩薩として出現するのです。そして、地涌の菩薩という人間主義の勇者を増やしていく闘争が広宣流布です。
 いずれにしても「地涌の義」とは、一人から一人への精神の拡大闘争です。
 「われも仏なり! 彼も仏なり!」との歓喜に満ちあふれでいく。そして、正義と幸福の道を叫ばずにおくものか、邪悪と慢心の輩を責めずにおくものか、という生命の大覚醒運動が広がっていく。それが広宣流布です。
 斉藤 善を拡大し、悪を滅する――その広宣流布の縮図が熱原の法難ですね。
3  偉大なる地涌の民衆の連帯
 池田 熱原の法難は、大聖人の法難と同じく、受身の法難ではありません。その本質を正しくとらえるためには、まず、一人の真正の弟子・日興上人が立ち上がられたところに出発点があったと見るべきです。日興上人の青年の息吹に満ちた現実変革の正義の闘争から幕が開き、二人、三人、百人と民衆が目覚めていった。
 それに対して、驚いた権力側は、道理を無視した弾圧を加えます。
 しかし、いかに騎り高ぶる巨大な権力をもってしでも、一人の農民の信仰を動かすことはできなかった。この事実こそ熱原の法難の核心であり、真髄です。
 三人の農民信徒に対する横暴な処刑は、結局、権力者の精神の敗北の象徴です。
 反対に、いかなる権力の迫害にも屈しなかった庶民の門下の信仰の強靭さ、輝かしさは、それまでの日本の宗教史・民衆史に前例がないと言えるでしょう。否、今日の人権闘争の先駆と言っても過言ではない永遠の精神の輝きを放っている。
 斉藤 熱原の法難とは、いわば、偉大なる地涌の民衆の連帯が、魔性の権力に生命の次元で打ち勝った、民衆凱歌の闘争ですね。
 池田 そうです。その偉大な民衆、偉大な広宣流布の和合僧が出現しうることを確信されたがゆえに、大聖人は「出世の本懐」を遂げられたと拝したい。
 広宣流布、すなわち人類の幸福・平和といっても、御本仏の闘争に連なり、戦う民衆が登場しなければ、実現できるものではないからです。
 それほどまで重要で、尊き「妙法の民衆」誕生の淵源は、若き日興上人の「悪と戦う」闘争から始まったと言えます。

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