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日蓮大聖人・池田大作

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不惜身命・死身弘法こそ師弟の真髄  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  地涌の使命を呼びかける
 斎藤 聖教新聞紙上で「わが忘れ得ぬ尊き同志たちよ」の連載が始まりました。
 第1回は、一昨年に亡くなられたある副会長について書いてくださっています。その最後に引用されている戸田先生の言葉が心に深く残りました。
 「名誉ある弟子をもつことは、師にとって最大の幸福だ」
 池田 命をかけて広宣流布を実現しようとする師にとって、広布の戦いを真に継承する本格的な弟子の出現ほど喜びはない。その御心を戸田先生は述べられているのです。
 「名誉ある弟子」とは、うわべや格好ではありません。信心において、そして精神において、師と同じ心を持つ人です。師と同じく不惜の実践を貫く人です。
 森中 その意味では、戸田先生にとっては、池田先生こそ名誉ある弟子だったのではないでしょうか。
 池田 私も、名誉ある弟子が陸続と出現してくれることを待ち望んでいます。それが私の最大の喜びです。
 斎藤 この連載ですでに語っていただきましたが、日蓮大聖人の御化導においても、竜の口の法難、佐渡流罪以降は、大聖人と同じく大難を覚悟し、大難と戦っていける本格派の弟子たちを育成して、和合僧団を再構築していく過程であると言えます。この戦いは、大聖人が身延に入山されてから以後も、ますます盛んになっていきます。
 池田 大聖人も、本門の弟子の登場を待たれているのです。
 竜の口の法難における大聖人御自身の発迹顕本が、ある意味で、和合僧団全体における発迹顕本にもなっていったともいえるでしょう。
 もちろん、それまでにも真剣に戦ってきた弟子たちはいたでしょう。しかし、大聖人と同じ心で立ち上がる門下が陸続と出てきたという点では、まさに日蓮門下全体の発迹顕本でもあったのです。
 森中 その違いは何でしょうか。
2  池田 本質的には、地涌の生命の開花です。悪世末法に妙法を弘通する地涌の使命に目覚めた時、人間の持つ力は無限に広がる。如来の使いとして、如来の事を実践することができる。
 和合僧団の総体に地涌の自覚がみなぎっていくことが、日蓮教団の発迹顕本です。
 もちろん、この時代に、一人ひとりが「我、地涌の菩薩なり」と、自分で鮮明に意識していたかどうかは分かりません。
 森中 だいたい、当時の五老僧自体が、そうした自覚をもって指導していたとは思えません。
 池田 そう。しかし、間違いなくいえることは、門下の中核的存在は、皆、「大聖人と同じ心」で戦わなければならないという自覚を持つようになったということです。
 自分が地涌の菩薩という意識はなくても、上首・上行菩薩という外用の振る舞いをされる日蓮大聖人と同じ「不惜身命」「死身弘法」の心で戦う門下は、地涌の使命に立ち上がった生命境涯にあったと言えます。
 佐渡以降に大聖人が門下に強く呼びかけられた「日蓮が如く戦うべし」という仰せが、門下たちに鮮烈な自覚を与えたことは疑う余地がないでしょう。
 大聖人は、「日蓮が如く」「予が如く」「我が如く」と、何度も何度も繰り返し仰せです。根本は「如説修行」の実践です。
 斎藤 佐渡で著された「如説修行抄」では、「SB665E」と仰せです。
 〈通解〉――法華経を如説修行する真実の法華経の行者として、師匠となり、弟子・檀那となるには、三類の強敵が必ず競い起こってくるのである。
 「SB666E」とも仰せられています。
 〈通解〉――如説修行する法華経の行者には、三類の強敵が必ず起こってくると知りなさい。したがって、釈尊の御入滅後、2千年余りの間に、如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の3人は別として、末法に入ってからは、日蓮およびその弟子・檀那以外にいないのである。
3  池田 「日蓮並びに弟子檀那」と示されている。ありがたいことです。
 大聖人と同じ戦いを起こす弟子檀那たちも、皆、如説修行の法華経の行者であると示されている。
 心ある門下は、自分たちも大聖人と同じ法華弘通の戦いを開始しようと決意新たに前進したことでしょう。
 斎藤 その門下が地涌の菩薩であることは、第六章で触れましたが、同じく佐渡でしたためられた「諸法実相抄」には、次の有名な一節を再び引かせていただきます。
 「SB667E」
 〈通解〉――なんとしても、この人生で信心をしたからには、法華経の行者として貫き、日蓮の一門として生きぬいていきなさい。日蓮と同意であれば地涌の菩薩なのであり、地涌の菩薩として定まったならば、釈尊の久遠以来の弟子であることは間違いないのである。
 池田 「日蓮がごとく身命を捨てよ」とまで仰せられているのは「閻浮提中御書」だね。
 森中 はい。第七章で引かれましたが、こう仰せです
 「SB668E」
 〈通解〉――願わくは日蓮の弟子らは師子王の子となって、群狐に笑われることがあってはならない。過去遠遠劫よりこのかた、日蓮のように、身命を捨てて強敵の罪悪を顕せ。そのような真の師子にはあいがたい。
 斎藤 大聖人のそうした呼びかけは、枚挙に暇ありません。
 「四菩薩造立抄」では、「SB669E」と仰せです。「寂日房御書」には、「SB670E」とあります。
 この両抄とも弘安2年の御述作とされていますから、身延期でも終始一貫して大聖人が「日蓮がごとく」「日蓮と同じく」と強調されていたことがうかがえます。
 池田 今の「寂日房御書」の一節の前では、大聖人が上行菩薩であることを示されているね。
 斎藤 はい。「SB671E」と仰せです。
 「御使」とありますが、「SB672E」等の仰せから、御自身が上行菩薩であるとの御確信があっての表現であることは間違いないと思います。

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