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日蓮大聖人・池田大作

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善性を促す仏法者の「振る舞い」  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  「無明」を破り「法性」に生きる
 斎藤 これまで、折伏とは「自他の仏性を信ずる」信念の実践であり、「人を敬う」最高の人間の行動であること、また、末法の時代を根本的に変革するためには折伏こそが根幹の実践になるということを教えていただきました。
 森中 そのなかで、折伏は、いわゆる宗派主義や排他主義とは根本的に違うということも確認することができました。
 池田 どこまでも万人の成仏を説く法華経の哲理と慈悲の精神の上から、人間を尊敬し、救済していく実践が折伏です。
 ただ、正法・像法時代の仏道修行の主流であった摂受と対比する限りでは、自他の魔性と戦い、打ち破っていく「破折」の面が特徴的なので、この面が強調されてきたわけです。
 日蓮大聖人は、不軽菩薩の実践に見られる「人を敬う」実践が法華経の修行の根本であると捉えられ、折伏は不軽の実践を継ぐものとされています。したがって、当然、大聖人の折伏の根本的な意義も、この「人を敬う」ということにあるのです。その上で、大聖人は、折伏以外にも、人を敬うことを、人間としての「振る舞い」として教えられています。
 森中 読者からの質問ですが、「人を敬う」という実践が大切であることは、理屈では分かるのですが、現実に実践することは意外に難しく、どうしたらよいのでしょうかと尋ねられました。
 池田 正直な質問だね。
 斎藤 「人を敬う」というと、だれでも総論としては反対を唱える人はいないと思います。けれども、実際に自分がよく知る「あの人」「この人」となると、様々な感情が浮かんできて、万人を敬うことは本当に難事ではないでしょうか。
 池田 宗教や道徳の根本問題のひとつと言えます。仏法では、この問題の究極に「無明」の問題があると捉えているのです。
 "それが良くないことだと分かっていても、つい、気がついたら善と反対のことを行っていた"――こうしたことは、大なり小なり、誰もが経験していることです。
 仏法では、根本的な無智であり、悪を生む力でもある無明が、人間の生命の中にあることを洞察しています。それとともに、無明を破って法性(悟り)を現わすことができるとも説きます。
 森中 「法性」を現すというのは妙法と一体の仏界の生命を現すということですね。また、仏界の生命を現すことができる可能性が「仏性」です。
 池田 いずれにしても、生命には無明と法性がともに具わっているのです。
 大聖人は「当体義抄」で、「無明と法性がともに具わっていると心得るならば、悪の無明を捨てて、善の法性をもととしていくべきである」(510㌻、趣意)と仰せです。
 「法性をもととする」というのは、具体的には、仏が仏界の生命を説いた法華経への信心を根本に生きていくことです。その強き信心にこそ、無明に覆われた凡夫の生命に、法性と一体の仏界の生命を開いていける妙なる力があるのです。
 森中 大聖人の仏界の生命を顕した御本尊への信心が、法性をもととする生き方の要ですね。
 池田 そうです。ところで、カントも、次元は違うけれども、心において悪を善に転じていけるという点では、仏法に近いこと言っています。
 カントは、わかっていながらついつい悪を行ってしまう人間の性癖を、もろもろの悪を生む根源という意味で「根源悪」と捉えた。しかし、これを克服する力として善に向かう素質である「善の意志」も人間には具わっているとする。
 森中 真実に迫った人の考えは、仏法に近くなりますね。
 池田 善悪の根本がともに人間の生命に具わっているとし、それゆえに「心」の力で悪から善へと転じていけると説く点で、カントは大聖人と似ています。
 斎藤 逆に言えば、「心」次第で善から悪へと転落することもあるわけですね。
 池田 そうです。大聖人が折伏を末法の修行とされたのも、当時の日本に、根源悪である「無明」が、法華経への不信・謗法という形で蔓延していると捉えられたからです。
 斎藤 その謗法を破折する折伏は、根源悪との戦いを意味するわけですね。
2  池田 末法の悪世においては、折伏のような、魔性と戦う決然たる信心がなければ、無明を破り、法性をもととして生きていくことはできないのです。
 しかし、その決然たる信心と実践があれば、生活の万般がすべて、法性をもととして生きていく修行の場になるのです。
 森中 それが信心即生活であり、仏法即社会ですね。
 池田 そう。生活が即ち仏道修行なのです。
 森中 考えてみれば、折伏は、自他ともの仏性を信じ抜く行動です。折伏以外にも、部員を妙法の人材にと思って日々繰り広げている学会活動も、友好対話の活動も、すべて自他の仏性を開発していく実践といえますね。
 池田 「自他の仏性を信ずる」という信念に立って、「人を敬う」行動を貫き、広めてきたのが創価学会です。
 社会がひずみ、人間が疎外される今の時代は、ますます「人間性」が問われる時代です。ますます、私たちの「人を敬う」実践の必要性が増してくる。そして、仏法の「人間性」とは、「自他の仏性を信ずる人の振る舞い」は、必ずや大きく光を放っていくことでしょう。
 森中 「人間性が問われる」といっても、何か聖人君子になることが求められているわけではありませんね。
 池田 そう。私たちの活動は、すべて、相手の生命にある仏性を信じるところから始まっている。
 といっても特別なことではありません。ともに仏性を開いて必ず成長しよう、必ず幸福になろうとの信念と努力があれば、ありのままの人間でいいのです。
 斎藤 人は、不愉快な思いをさせられたら、相手に対して怒りの気持ちを持つ。それは当然です。
 いやな先輩をみたら、ああはなりたくないと思うのも自然な感情です。
 言うべきことは言う。でも最後は切り捨ててない。題目を唱えていくなかで、どんな人をも包み込んでいける。それが仏法の智慧ですね。
 池田 いかなる時も、人間の仏性を信じて祈っていく。その境涯に立って振る舞っていくことが、仏法者の「人間性」の証です。
 その偉大な足跡を国境を越え、民族を超えて残してきたのが学会員です。今や、世界中で、「人の振る舞い」に徹しているメンバーが周囲や社会から高く称賛される時代になりました。
 斎藤 190もの国や地域に広まったのも、人間を尊敬する学会員の前向きの生き方の力によるところが大きいと思います。
 池田 人の善性をどこまでも信じ、開発しあっていく生き方にこそ、仏法が説く「人間性」の開花がある。それを大聖人は「人の振る舞い」と言われたのです。
3  釈尊の出世の本懐は「人の振る舞い」
 森中 はい。大聖人は四条金吾に「人の振る舞い」こそが仏法で目指すべき肝要であると教えられています。
 「SB623E」
 〈通解〉――釈尊一代の教えの肝心は法華経であり、法華経の修行の肝心は不軽品である。不軽菩薩が人を敬ったのは、いかなることを示しているであろうか。それは、教主釈尊の出世の本懐は人間としての振舞いにあるということである。あなかしこ、あなかしこ。賢明であることを人といい、愚かなことを畜生というのである。
 池田 それでは、この一節を精読することから始めてみよう。
 「一代の肝心は法華経」――まず、釈尊一代の教えの真髄は法華経であることを示すところから説き起こされている。
 改めて確認するまでもないが、法華経こそが全民衆を成仏させる教えです。「開仏知見」、すなわち万人に仏性を開かせて、万人を仏と同じ境涯にする。これが、釈尊がこの世に出現した根本目的です。
 森中 「如我等無異」ですね。
 池田 法華経とは、一言で言うと、「皆が仏なり」という思想であり、「皆を仏に」という実践を促す経典であると言えます。
 その考え方を敷衍して言えば、「人間を尊敬する」生き方を説いていると言える。
 森中 一方、万人を尊敬する生き方が十分に説ききれていない経典が、爾前権教です。爾前権教は、二乗や悪人・女人の不成仏を説いており、何らかの意味で「差別」を残しているからです。
 池田 皆成仏道の経典である法華経に説かれる修行の本質は何かを述べられているのが、次の展開です。すなわち「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」と仰せられている。
 いうまでもなく、法華経の教義の肝心は方便品と寿量品ですが、法華経二十八品の「修行の肝心」が不軽品であると断言されていることに、深い意義を拝することができます。
 森中 法華経には、「法華経を持つ」ことが全編通じて強調されています。また、五種の妙行、四安楽行など、法華経をどう修行するかは様々に説かれています。
 池田 そのなかで、大聖人は不軽菩薩の実践こそが法華経の修行の本質であると明言しておられる。
 斎藤 不軽菩薩の実践と日蓮大聖人の実践の関係についてはすでに確認しました。釈尊の久遠実成が説かれた本門寿量品以降に唯一、釈尊の過去世の修行の姿が明かされているのは不軽品だけであり、不軽の実践が久遠の本因の修行を示唆しているのではないか、ということも確認しました。

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