Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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自他の魔性と戦う折伏行  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  魔性と仏性との闘争
 斎藤 この連載では、日蓮大聖人の御生涯の大綱を拝察するとともに、大聖人の主要な法門について考察していただいております。御生涯については佐渡流罪まで拝察し終わり、これからは、身延期から御入滅までの大聖人の御事跡と法門を考察していただくことになります。
 森中 佐渡流罪を乗り越えられたことにより、大聖人は御生涯における4度の大難をすべて勝ち越えられたことになります。
 池田 大聖人におかれては、これらの大難は単なる難ではなく、権力や宗教がもつ「魔性」との戦いであられた。そして、大難をすべて乗り越えられることによって、いかなる魔性をも乗り越える「妙法の力」「仏界の力」を自ら証明されたと拝したい。
 森中 竜の口の法難では、発迹顕本されて、妙法と一体の仏界の御境涯を示されました。
 斎藤 その「仏界の力」こそが末法濁悪の世の人々を救う力であるがゆえに、大聖人は、それを御本尊として顕し、万人に与えられたのですね。いわば4度の大難は、「仏界の力」の実験証明の場であったとも拝することができます。
 池田 前にも述べたが、末法は「争いの時代」です。国々も人々も抗しがたい力で「争いへ争いへ」と流されていく。
 その激流に抗する力は「自他の仏性を信ずる」という強い信念であり、その信念の実践としての「人を敬う」行動以外にありません。
 なぜならば、争いへの抗しがたい力を生むのが「無明」だからです。「無明」とは、万人に仏性が具わることへの無知であり、不信です。
 また、万人の尊厳を踏みにじる暗い衝動です。末法の争いを生む要因である権力や宗教の魔性も、この無明が根本にあるのです。
 森中 科学や文明が発達した現代においても、人類は、この無明や魔性から解放されているとは思えません。ますます「争い」の度が深まっているようにも感じられます。
 斎藤 むしろ、科学や文明が発達している分だけ、厳しい事態に陥っているとも見ることができます。
 池田 だからこそ、人間性の根本に仏性を見出した仏法の哲学と実践が重要なのです。「人間不在」という現代の深い病理を治すのは仏法しかありません。
 斎藤 アメリカの9・11同時多発テロ(2001年)の4か月後に発表された昨年の「SGIの日」記念提言を思い起こします。
 そこでは「真に脅威なのは、戦わなければならない相手は、一体誰なのか、何者なのか」との問いを立てて、戦うべき最強の敵は「人間不在」という現代の悪霊である、と答えられていました。
 森中 カール・ユングの「ゼロを一万回足したところで一にすらなりはしない。すべてはひとえに一人一人の人間の出来いかんにかかっている」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)という言葉が引かれているのが印象的でした。
2  池田 現代の諸問題も、人間生命の洞察に基づく戦いがなければ真の解決はないということです。
 一人の人間の生命における「魔性と仏性の戦い」を徹底的に究められたのが、大聖人の仏法なのです。4度の大難は、その根底的な戦いの場でした。
 そして、大聖人は、厳然と勝ち抜かれたのです。どこまでも「仏法は勝負」です。人類の宿命転換は、この根本的な生命の戦いによってのみあるのです。
 その意味で、「争いの時代」の様相をいよいよ深めている現代においてこそ、日蓮仏法の「戦う人間主義」が時代の要請となってくるのです。
 斎藤 そこに創価学会の使命がありますね。自他の仏性を信じて、自他ともに仏性を開発する実践は、地涌の菩薩の使命そのものです。
 池田 今は、濁世です。人間の良識をあざ笑うかのような愚行が跳梁し、世界を暗く覆っている。一面では、「人類は進歩しているのだろうか」「人間はあまりにも無力だ」といった悲観的な声が広がっている。
 しかし、他方では、だからこそ、「人間の持つ素晴らしい可能性を信じたい」という希望を、少なからぬ人が持っているのではないか。
 濁流が清流を押し流してしまうのか、清流が泥を洗い流すのか。残念ながら、まだまだ濁流の勢いが強いと言わざるをえない。
 私がお会いしてきた世界の良識の方々は、皆、人類は今、重要な岐路に立たされているという認識で一致していた。そして、未来を見すえた責任ある英知の結論も一致している。それは、人間自身が変わるしかない、という一点です。
 混迷の闇が深くなればなるほど、結局は、人間自身が問われてくる。
 焦点は「人間」です。そして、一人ひとりの境涯をどう高めていくか。そこに、未来を開くための急所がある。
 森中 現代こそ、大聖人の仏法の「戦う人間主義」の正念場ですね。
 池田 「時」が来ているのです。
 日蓮大聖人の仏法は「師弟の宗教」です。大聖人御自身が、まず、自他の仏性を敬う折伏行の「さきがけ」として、法戦の先頭に立ち、魔性を破り、人々の仏性の顕現のために闘争されました。
 そして、竜の口の法難、佐渡流罪を機に、民衆救済の大闘争を門下にも強く呼びかけられる。佐渡流罪以後は、弟子たちが戦う時が来たのです。
 その戦いとは「魔性との戦い」即ち「折伏」です。現代において創価学会が出現したのも、まさに現代こそが、この戦いの正念場であるからであると考えたい。
 そこで、この「折伏」の意義について拝察していこう。
3  摂受と折伏
 斎藤 「折伏」というと他宗派を破折することと捉えられ、宗派主義あるいは排他主義として考える人もいますが、そうではないと思います。
 池田 折伏は、「自他の仏性を信ずる」信念の実践であり、「人を敬う」最高の人間の行動です。
 ただ、「魔性と戦う」という厳格な面があるので、どうしても排他的なイメージで受け止められやすいのではないでしょうか。
 斎藤 大聖人が本格的に折伏の意義を門下に教えられていくのは、竜の口の法難以降です。竜の口の法難から約一ヵ月後、大聖人は、大田左衛門、曾谷入道、金原法橋の3人に「転重軽受法門」を与えられ、そのなかで「折伏」行に大難が必然であることを示されています。
 池田 同抄では、善国では順調に法が広まり、悪国では迫害・弾圧がある。それに応じて、弘教のあり方にも摂受と折伏があると仰せです。
 「開目抄」でも、「SB603E」では摂受を優先し、「0235」は、折伏を優先していくべきであると示されています(235㌻)。
 このように御書では「国」の観点から折伏が優先されるべきであると仰せです。これらの場合、大聖人の御真意は、「SB605E」と仰せのように、具体的に"当時の日本"を問題にされて、邪智・破法の国であるから折伏が必要であると示されることにあります。
 しかし、摂受・折伏のどちらを実践すべきかは、より根本的には「時による」ということが大聖人の御教示です。
 「開目抄」では、折伏を論じられて「SB606E」と結論されています。また、「佐渡御書」や「如説修行抄」でも、「時による」というのが大聖人の御教示です。
 森中 「佐渡御書」では「SB607E」と仰せです。
 〈通解〉――仏法の実践において、摂受と折伏は時に応じて行うべきである。たとえば、世間の文武の二道のようなものである。それゆえ、昔の偉大な聖人たちは時に応じて仏法を実践したのである。
 斎藤 「如説修行抄」では「SB608E」と言われています。
 〈通解〉――末法の今の時は、権教がただちに実教の敵となっているのである。一乗法が流布する時は、権教があって敵となって、法の正邪がまぎらわしいのであれば、実教から権教を責めるべきである。これを摂受・折伏という二つの法門のうちでは「法華経の折伏」というのである。天台が「法華経の折伏は、権教の理を破る」と言っているのは、まさしく道理に適っているのである。
 池田 末法は「闘諍言訟・白法隠没」の時代です。万人に仏性を開かせるという仏の真意を説いた実教としての法華経が見失われ、それ以外の種々の方便を説いた権教と区別がつきがたくなっている。
 森中 加えて、権教が人々をたぶらかせて、悪道に堕としていきます。実教である法華経を誹謗する悪僧が充満し、仏の真実の教えが埋没してしまっている。そうした時に大聖人が出現されました。

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