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日蓮大聖人・池田大作

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現実変革へ、智慧と勇気の大言論戦を  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  斎藤 この「御書の世界」の連載は、海外でもよく読まれていると聞きます。各国のメンバーが来日するたびに、その反響を語ってくださいます。なかでも、日蓮仏法が現実変革の宗教であることを心から納得し、感銘したという声が多く寄せられています。
 森中 「大聖人の仏法への理解が深まった」「広宣流布の大切さを心に刻みつけた」「仏法の人間主義の真髄として御本尊への信が深まった」「現実に立ち向かう勇気がわいてきた」「無力感を打ち破ることができた」等々、多くの喜びの声を聞きます。
 池田 21世紀が、世界中で日蓮仏法の人間主義の哲学が深く理解され、広く語られていく時代になることを切に願っています。日蓮大聖人の仏法の精髄が全世界に正しく伝わっていくことは、深い次元から「人類益」をもたらすものと確信するからです。
 また私は、各国語に翻訳してくださっている方々の労苦に深く感謝します。
 斎藤 今、世界は「自分一人が変わっても仕方がない」という無力感や諦めの風潮で覆われ始めているのではないでしょうか。この時に「すべての変革は自分の変革から始まる」という日蓮仏法の人間革命の思想は大きな希望となっていくと思います。
 森中 一般には、仏教はあくまで内省の哲学で、心の平静を説いたものだという認識が強いようです。むしろ、現実逃避のための宗教だとさえ思われている面があります。
 仏教が現実を力強く変革していく教えであるということを友人に語るだけでも、海外の人たちの認識を一変させることができるといいます。
 池田 釈尊も日蓮大聖人も、民衆救済の実現を目指して生涯、戦い続けられた。人々の幸福を阻む魔性と戦い続けられた――それが仏です。
 幸福になるためには戦わなければならない。その最高の原動力が信仰です。
 斎藤 人生も同じですね。
 池田 そうです。誰の人生にも、大変なことはあります。山も谷もあれば、坂道も、回り道もある。その現実の人生のなかで「偉大な人生」の歴史を創るために信仰が必要なのです。
 苦難に向かって挑戦していく源泉が信心です。そして、大切なことは幾度でも挑戦することです。
 「前へ」「前へ」と進むことです。
 一念三千という甚深の法理は、自分一人から一切を変革していこうと立ち上がる信心に凝縮されます。"戦う心""戦い続ける心"を忘れたら信心ではない。
 「未曾暫廃(未だ曾て暫くも廃せず)」です。法華経の諸法実相の原理も、現実変革の実践を忘れたら、単なる現実追従となってしまうでしょう。
 ゆえに大聖人は、生涯、「立正安国」の実現に向けて戦い続けられたのです。「立正安国」の理念と実践は、大聖人の現実変革の哲学の結晶と拝したい。
 斎藤 佐渡流罪を赦免された後、鎌倉に戻った大聖人は早速、幕府への烈々たる国主諫暁に挑戦されます。
 森中 まさに「鎌倉へ討ち入りぬ」ですね。どんなに迫害されても、大聖人の戦う心は変わりません。
 「SB582E」と仰せです。
 池田 幕府のどんな弾圧も、大聖人の御精神を挫くことはできなかった。「いまだこりず候」との仰せに、大聖人の強靭な魂の響きを拝することができます。
 今の御文の直後に「SB583E」と仰せです。
 大聖人は、生涯、人々の心に幸福と平和への種を植え続けられた。立宗以来、流罪中も、身延入山後も、大聖人の闘争心はいささかも変わりません。
 斎藤 そう考えると身延入山は、いわゆる「隠遁」などでは全くありませんね。
 池田 重要な視点です。ただ、その話は改めてすることにして、まず、赦免直前からの足跡を追ってみよう。
2  堂々と赦免を勝ち取る
 斎藤 文永11年(1274年)3月、佐渡に流罪の赦免状が届きます。
 赦免の直接のきっかけは、幕府の蒙古襲来への危機感の高まりだと考えられます。
 森中 大聖人の佐渡流罪中、蒙古襲来の危機はますます高まっていきます。
 文永9年(1272年)5月には、元使・趙良弼の使いである高麗人が来日します。日本は返答しません。
 さらに翌10年3月に、元使・趙良弼自身が太宰府に来ます。しかし、打つ手もない日本は、入京を拒否し、対話することなく、退去させます。
 斎藤 その緊張の中、文永9年10月23日夜、大聖人は蒙古襲来の夢を見、これを手元の日興上人書写の『立正安国論』の裏面にメモされています。
 池田 大聖人は、夢に御覧になるほど、蒙古襲来について切実に、また深くお考えだったのではないだろうか。
 大聖人は、佐渡におられながら、蒙古・高麗の情報を集めておられたようだね。
 森中 はい。9月に四条金吾と思われる門下から報告を受けられています。
 池田 文永9年二月騒動(北条時輔の乱)が起こって、すでに自界叛逆難が現実となった。残る他国侵逼難も、蒙古襲来の脅威として目前に迫っていた。その現実を、大聖人は、すべて引き受けて、解決しようとされた。
 無用の戦乱でさらに民衆を苦しめることを深く憂慮されていたからです。
 大聖人は常に民衆の幸福を願い、平和と安定を願われていた。
 斎藤 二月騒動の後、幕府の迫害が少し落ち着いたのか、門下が大聖人の赦免運動を始めたようです。
 それに対して、大聖人は、同年5月5日付の「真言諸宗違目」では、むしろ、赦免を少しでも言い出すような門下は「不孝の者」だと厳しく禁じられています。
3  池田 大聖人は、大難をもはるかに見下ろす大境涯であられた。幕府に赦免を請うような卑屈な真似は許されなかった。
 幕府が非を詫び、尊崇の念をもって鎌倉御帰還を願う時がくることを、すでに確信されていたのではないだろうか。
 正義の勝利は、正義の言論、正義の行動によってもたらされる。権力にすりよって庇護を受ければ、かえって権力に利用される。そのことを大聖人は厳しく教えられたのでしょう。
 斎藤 「立正安国論」で予言されて以来、繰り返し警告されていた二難がついに具体的な形となって現れたことが、幕府の方針の転換を生みました。
 もともと、幕府自体が大聖人は無実だと分かっていながらの不当な流罪でした。竜の口の処刑失敗直後に「この人は罪がない人である。今しばらくあって、赦免する」とわざわざ急ぎの伝令を出しています。
 池田 幕府要人たちは、"大聖人への不当な弾圧が国を揺るがす危機をもたらすのではないか"という不安を心の奥に抱えていた。
 そこに、大聖人が予言されたとおり、内乱が起こり、外寇が迫ってきた。
 彼らは、大聖人に対して、畏敬とはいかないまでも、畏怖の念はきっと抱いただろう。
 森中 なかでも、虚御教書を3度も出して大聖人を亡き者にしようとしていた佐渡守・北条宣時などは、かなり恐れていたでしょう。
 池田 最終的に赦免を決断したのは、執権・北条時宗だったようだ。大聖人も諸御抄にそう記されている。
 時宗は、大聖人への悪評が讒言によるものだ、とようやく気づいた。もっとも大聖人は、御自身の無実、正義は必ず証明されることを確信しておられた。
 「水は濁ってもまた必ず澄み、月は雲が隠してもまた必ず晴れて現れる道理」だと仰せです。
 時宗は、まだ幕府内にも反対意見がある中で、大聖人の正義に目を向け、聞く耳をもとうとした。それゆえに、大聖人が鎌倉に御帰還されてすぐ、幕府に招いて意見を聞こうとしたのではないか。
 斎藤 日蓮大聖人は、文永11年3月13日に佐渡を発ち、同26日、鎌倉に帰還されました。御帰還後程ない4月8日、大聖人は、幕府に招かれて、平左衛門尉頼綱をはじめとする重臣たちに対面し、質問を受けられます。
 頼綱は、居丈高に振る舞った竜の口法難のときとは打って変わって、礼儀正しく振る舞っていました。また、居並ぶ他の重臣からは、念仏・真言・禅など諸宗についての質問がありました。大聖人に対する彼らなりの気遣いが伺えます。
 森中 大聖人と大聖人を迫害する一派の攻守は、流罪時と赦免時では、まったく入れ替わっていたのですね。そのことは、陰で迫害の糸を引いていた良観らにもいえます。
 池田 大聖人は、まさに反転攻勢の気概に満ちた堂々の凱旋であられたのに対して、讒言を繰り返していた良観は、固く門を閉じ、仮病を使ってこそこそ逃げ隠れしていたようだね。
 森中 良観は、大聖人が流罪に赴かれる時には、"皆、急いで鎌倉へ。私が日蓮と宗論をして皆さんの疑いを晴らそう"などと威張っていました。(笑い)

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