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日蓮大聖人・池田大作

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大難を超える師弟の絆  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
1  池田名誉会長 この冬(2003年)は、白雪を冠した富士山が実に見事だった。
 八王子の東京牧口記念会館からも、厳たる富士の峰が美しかった。あまりにも堂々としていた。
 斉藤克司教学部長 私たちも、かくありたいものです。何事にも揺るがず、威風堂々と厳然と進んでいく。そうした人生を、万人が願っていると思います。
 池田 そうなるための信仰です。また、そうでなければ、宗教を持つ意味がない。
 宗教は、人間を高め、強くするために存在している。宗教の真価は、その宗教を実践している人間を見れば分かります。一切は「SB546E」です。
 そして、真の宗教の力は、逆境の時に、より強く発揮されるものです。
 森中理晁副教学部長 日蓮大聖人の御生涯にあって、まさに、死と隣り合わせにあった竜の口法難・佐渡流罪こそ、日蓮大聖人御自身の人間としての崇高さがあますところなく発揮された舞台になっていると思います。
 斎藤 「難即成仏」、「難即悟達」ですね。これについては、大聖人の4度の大難を考察していただいた時に、深き意義をうかがいました。
 池田 本章では、門下にとっての法難の意義を考えてみたい。竜の口の法難と、それに続く佐渡流罪は、大聖人お一人だけではなく、大聖人の教団が全体として弾圧を受けました。真の日蓮門下にとって、信仰を鍛え、師弟不二の絆を確立する機会になった。
 また、佐渡流罪は一面から見ると、難ゆえに真実の信仰を築いた弟子たちにとってみれば、真実の弟子の時代の開幕でもあると捉えることができるのではないだろうか。そうした観点から佐渡流罪を考えてみたい。
 斎藤 これまで、佐渡流罪に関しては、様々な角度から考察されてきましたが、弟子の成長という視点は、あまりなされてきませんでした。
 池田 佐渡流罪という逆境を耐え抜くことによって、真の師弟不二が成就したと思う。
 創価学会もそうです。牧口先生が迫害されて幾度も左遷された時に戸田先生は行動を共にされ、師弟の絆を深められていく。そして、獄中でただお一人、牧口先生の聖業を継いでいかれた。
 私も、戸田先生が事業で一番大変な時に命懸けでお仕えした。それまで「弟子」と名乗っていた人たちが次々と退転していった。なかには、「牧口の野郎」「戸田の野郎」とさんざんに罵倒した者もいた。それまでは、「私は牧口先生の弟子である」「私は戸田先生の弟子である」と言っていた人たちが、がらりと態度を変える。
 人間の心というものは恐ろしいものです。いざという時に堕ちていく者、純粋に自身の信念の道を貫いていく者――人さまざまです。そして、また、権力の卑劣な動きと、あまりにも対照的な堂々たる師匠の存在。大山は揺るがないが、自分が動転して見るものだから山が動いているように錯覚して見えてしまう。
 斎藤 佐渡流罪を通して、そうした人間模様を探訪してみるのも、人間主義の眼を深めるきっかけになるといえますね。
2  流刑の厳しさ――師弟の離間
 森中 竜の口の法難・佐渡流罪は、日蓮大聖人の御生涯で最大の法難でした。大聖人御自身がこう仰せです。
 「SB547E」
 大聖人の御生涯の4度の大難の中に2度の王難すなわち国家権力からの弾圧があり、その中でも竜の口の法難・佐渡流罪は、大聖人御自身の命に及ぶ迫害であり、なおかつ、弟子たちにも大弾圧が加えられた、と仰せです。
 斎藤 「わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる」とは、大聖人の法門をわずかばかり聴聞した在家の門下にも幕府等の迫害が及んだということです。具体的には、所領没収、追出、勘当、過料等の迫害です。
 池田 「謀反なんどの者のごとし」との仰せは、決して誇張ではなかった。世論が権力の横暴と同調し、正義の声が封殺された社会ほど恐ろしいものはないからです。
 皆はあまり知らないかもしれないが、戦前もそうだった。だれもが心の中ではおかしいと思っていても、真実を語る自由が奪われ、あげくは、正しい言論を語る人が迫害された。正義の人が「非国民」呼ばわりされ、最後は投獄です。
 人間を良く変えるのも「思想の力」であり、悪くしてしまうのも「思想の力」である。
 斎藤 日蓮大聖人はあまりにも鋭く時代の闇の本質に迫られたがゆえに、かえって大弾圧を受けたのですね。
 池田 だからこそ、正義と真実を叫び続ける勇気が必要なのです。そして、その勇気の声が時代を変えるか否かは、後に民衆が続くかどうかです。
 森中 社会全体が無明に覆われている場合、目覚めた民衆も社会の中で標的になって、迫害されていきます。あらためて御書を拝していくと、大聖人門下に対してもすさまじい弾圧が加えられたことがうかがえます。
 いかに大変な迫害であったかを示す御文を少し拝してみます。
 「SB548E」
 〈通解〉――鎌倉でも幕府の処罰の時には千人のうち990人は退転してしまった。
 「SB549E」
 〈通解〉――私(日蓮)自身が処罰に遭うばかりではなく、私のもとに行き通う人々の中にも、ある人は幕府の処罰を受け、ある人は主君から領地を召し上げられ、ある人は一族郎党から追放され、ある人は父母兄弟から勘当されて捨てられた。
 「SB551E」
 〈通解〉――日蓮が幕府の処罰を受けた時、日本一同に(日蓮を)憎むことになり、弟子たちのある人は領地を召し上げられたので、またあちこちの主君も(大聖人の弟子を)一族郎党から追い出し、領地から追放したのに…。
 「SB550E」
 〈通解〉――あなた(妙一尼)の亡きご主人は法華経のために命を捨てていらっしゃった。わずかに命を支えていた領地を法華経のゆえに召し上げられたことは、命を捨てることではないだろうか。
 斎藤 まさに「日本一同ににくむ」と言われている通りですね。「千が九百九十九人は堕ちて候」ですから、教団としてはほぼ壊滅状態であったことが分かります。
 また、当時「二百六十余人」という門下のリストが作成されたといいます。いわば"ブラックリスト"です。権力が牙を剥く時は、見境なく襲いかかってくる。
 森中 そこで、いつも疑問に思うことがあります。これほどの大打撃を受けた教団が、どうして再び発展していったのでしょうか。
 教団が壊滅したといっても過言ではないわけですから、仮に再建するとしても、本来ならば、相当な時間が必要だったと思います。
3  池田 宗教には、苦難が信仰を鍛えるという面がある。弾圧がむしろ発展のきっかけとなる場合があることは古今東西の歴史が証明している。
 大聖人は、「堂舎を焼き、僧尼を殺すなど、権力の強制的な力をもってしては、仏法は失われることはない。むしろ悪僧が仏法を滅ぼす」と仰せです。
 本来、仏法を正しく持つべき聖職者こそが仏法を破壊するということです。
 権力者による建造物の破壊は目に見えるが、悪僧の思想・宗教の誤りは目には見えない。その目に見えない狂いが仏法を滅ぼすのです。人々がその狂いによって誤った行動をとるようになり、明らかに目に見えて異常だと分かるようになった時は、すでに手遅れとなってしまう。
 要するに、宗教で一番重要なことは教えを信ずる人の「心」です。
 弾圧を受けて法に殉ずる人は、むしろ「心」においては勝利しているとも言える。「心」が破られなければ、仏法は滅びることはない。
 「心」こそ大切です。だから本当の弾圧は、信仰者の「心」を破壊しようとする。
 先ほどの御文に、堂舎を焼いたり、僧尼を殺すなどの弾圧の例が挙げられています。権力側もそれだけで済むとは思っていない。
 魔性に魅入られた権力が、信仰の心を破壊するために企むものは「離間工作」です。師弟の絆を切り、和合僧を破壊するための策謀です。
 斎藤 離間工作には、信仰者の「心」を蝕んでいく効力があることを、権力者はよく知っているのですね。
 「流刑」の持つ深刻さは、そこにあります。冤罪で流罪し、本人に名誉回復の機会を与えない。そして、デマを社会に流布して、正義の教団に不正義のレッテルを貼る。宗教者の信用を著しく低下させ、社会的に抹殺しようとする。正面から批判のできない臆病な権力者は、必ず、そうした計略をめぐらせます。
 森中 近年、学会を破壊しようとしたデマ事件も全部、同じ構図です。必ず、先生と会員の離間工作を計ろうとしている。
 日顕の「C作戦」もそうでした。学会が正統でないというレッテルをマスコミを使って流布させて、学会組織の破壊を企んだ謀略でした。面と向かって対話もできない。陰にまわって陰険、卑劣な謀略を続けた。こんな最低の人間はいません。悪党はいません。
 斎藤 大聖人時代の念仏者たちや良観らの策謀も、すべてそうです。讒言、讒奏で大聖人一門の弾圧を謀ってきた。

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