Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「観心の本尊」は「信心の本尊」  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  「日蓮がたましひ」を御図顕
 斎藤 前節では、日蓮大聖人が御本尊を顕されたのは、永遠の妙法を万人に開き顕すためであることを論じていただきました。
 御本尊は、万人の成仏のために開かれた普遍的な法体であることが確認できました。
 本節でも引き続き御本尊の深義について、お伺いしたいと思います。
 池田 本尊とは「根本として尊敬する」の意です。万人が規範とすべき尊極の当体を、大聖人は御本尊として顕してくださったのです。
 この大聖人の御本尊を拝するうえで重要な点は、「日蓮がたましひ」たる「南無妙法蓮華経」を書きあらわした御本尊であるということです。
 ということは、御自身の御生命の中に根本として尊敬すべき尊極の当体を顕現されたということです。それはまた、万人にこの尊極の当体が具わっていると見られているからです。
 森中 本尊の「内在」ということですね。前節で、少しお話していただきました。
 池田 この"生命に内在する本尊"について、現代的意義を拝していきたい。
 南無妙法蓮華経は、宇宙根源の法であるとともに、尊極の仏界の生命そのものであり、仏が成就した最高の境涯の根本である。ゆえに、「たましひ」と表現されたと拝したい。
 生命への深い洞察と共感、それに基づくあらゆる生命への慈しみ。また、人間の苦悩への大悲と同苦。そして、苦悩する人々を救うための智慧と意志に貫かれた行動。このような仏の人格と行動の核心にあるのが、宇宙根源の法であり、その法と一体の如来の生命です。それを大聖人は「南無妙法蓮華経」と悟られ、「日蓮がたましひ」であるとされたのです。
 大聖人は、この「南無妙法蓮華経」を末法の民衆が根本として尊敬すべき「本尊」として明示されたのです。
 この本尊観から帰結するのは「人間主義の宗教」です。
 現代の多くの宗教は、意識的にせよ、無意識的にせよ、人間の外に究極の尊厳なるものを置く外在的な本尊観を残している。
 しかし、21世紀こそ、誰人の生命にも等しく尊極の生命があるという、最高の人間主義を打ち立てなければならない。そのためにも日蓮仏法の内在的本尊観は重要です。
 斎藤 外在的本尊観といえば、国家主義の根にある国家崇拝も一つの外在的本尊観ではないでしょうか。そのことが、現代にあってもなお、戦争、虐殺など、国家主義がもたらす悲劇が絶えないことに影響を与えているのかもしれません。
 森中 かつて、「法華経の智慧」で先生が語られたことを思い出します。それは、ユングが「国家は神の位置に取って代わる」と言っていることです。
 そのユングが、国家主義の魔性に抵抗する唯一の力は、「人間は小宇宙であり、偉大なる宇宙を小さな世界のなかに映し出している」という人間尊厳の自覚を個々人がもつことであると指摘しています。
2  池田 非常に重要な指摘です。大聖人の内在本尊の法義に通じるからです。
 斎藤 そこで「日蓮がたましひ」を本尊とされている御文を拝読します。多くの同志が心に刻んできた有名な御文です。
 「SB513E」
 〈通解〉――この御本尊は日蓮の魂を墨に染め流して書いたのである。信じていきなさい。仏の御心は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にほかならない。妙楽大師は「久遠の寿命という仏の本地を明かしたことをもって法華経の命とする」と述べている。
 池田 南無妙法蓮華経は御本尊の根本であり、当体です。そのことは、御本尊の中央に大きく「南無妙法蓮華経日蓮」としたためられていることからも明らかです。
 大聖人は三類の強敵として襲いかかってきたあらゆる魔性に打ち勝ち、竜の口法難の時に永遠の妙法と完全に一体となる御境地を成就された。それが久遠元初自受用身の御境地です。
 いわゆる発迹顕本(迹を発いて本を顕す)です。大聖人の凡夫の御生命に久遠元初自受用身という本地を顕されたのです。
 斎藤 本地とは、本来の境地という意味です。これは、人と法が一体の御境地です。
 森中 人法一箇のこの御境地は、元初の妙法の無限の力が、何の妨げもなく、現実に生きる人間の生命に成就されている真の仏界であると拝されます。
 池田 人間生命への妙法の清浄なる開花、すなわち妙法蓮華経です。それが「日蓮がたましひ」です。
 森中 大聖人は「顕本遠寿(本の遠寿を顕す)」という妙楽の言葉を引かれています。御本尊は、永遠の妙法と一体の久遠元初自受用身の生命を顕したものであることを示すための引用ですね。
 池田 その尊極の御生命を、大聖人は南無妙法蓮華経として顕されたのです。
 斎藤 あらゆる生命は、本来、宇宙本源の妙法の当体ですから、妙法と一体の如来の生命は、あらゆる生命の本地とも言えるのではないでしょうか。
 池田 そうです。その真実を末法の民衆に気づかせるために、大聖人は御自身の覚知された尊極の生命を御本尊としてしたためられたのです。
 大聖人が、元初の妙法と一体である御自身の生命を、そのまま御図顕されたのは、万人の「胸中の本尊」を開き顕すためです。私たちが成仏するための修行の明鏡として与えてくださったのです。
 森中 「日蓮がたましひ」とは、この連載の第8回で教えていただいたように、「師子王の心」にも通じますね。それは「生命本源の希望」であり、「生き抜く力」です。万人の幸福を開くために、不幸をもたらす一切の悪と敢然と戦う「勇気」でもあります。
 斎藤 師匠が命懸けで示された「師子王の心」が、弟子の自分にもある。このように信じることが、その「勇気」を開くカギですね。
 池田 そうです。師弟不二の道を生き抜くところに、自身の幸福があり、皆の幸福がある。
 その真実を、法華経は「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」と説いている。
 "私も人間だ、あなたたちも人間だ、人間はかくも偉大なり!"という「人間王者の讃歌」です。それが法華経の魂といえる。
3  御本尊は自身の生命を映し出す明鏡
 池田 万人が内なる本尊を顕す道を、体系的に説かれた御書が「観心本尊抄」です。題名の「観心の本尊」は、本尊が内在的なものであることを端的に示しています。この「本尊抄」の前半では「観心」について述べられ、その結論として「受持即観心」の深義を示されているね。
 斎藤 はい。それを踏まえて後半では、大聖人の観心に基づく「本尊」の建立について述べられていきます。
 池田 本節では、前半の結論である「受持即観心」を中心に考察しよう。
 森中 よろしくお願いします。まず、「観心」の意義ですが、同抄には、こう述べられています。
 「SB514E」
 〈通解〉――観心というのは、自分自身の心(生命)を観察して、十法界(十界)を見ることである。これを観心というのである。
 池田 我が生命に、地獄から仏までの十界の境涯のすべてが、本来的に具わっていることを観察する。それが「観心」の実践です。
 森中 観心とは修行であり、実践ですが、率直な疑問として「自分の生命に十界がすべて具わっていること」を観察することに、どのような意味があるのでしょうか。
 池田 「本尊抄」の流れから拝すると、己心に十界を見るということのポイントは「己心に仏界を現すこと」にある。
 十界を具しているといっても、瞬間瞬間に観察できるのは、その時に現れている一界の生命だけです。すると、十界の中でも現れがたい四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)、その四聖の中でも最も現れがたい仏界が問題になる。
 斎藤 「本尊抄」では実際に、凡夫の己心に現れる六道の生命を観じ、更に二乗界(声聞界・縁覚界)と菩薩界の生命を観じたうえで、「SB515E」と仰せです。
 池田 凡夫の己心に十界を観ずるといっても、仏界が現れるかどうかが一番の問題なのです。
 ただ、仏界を観ずるとしないで、十界を観ずると言われているのは、仏界が現れたとしても他の九界がなくなるわけではないからです。あくまでも十界互具の実相を観ずるのが観心だからです。
 たとえば、すべてに行き詰まってしまい、まさに今、苦悩に喘ぐ地獄界の生命が現れているとしても、その中に、すべてを乗り越え勝利していける仏界の大生命力が厳然と具わっていると見るのが、十界互具の実相の観心です。
 斎藤 しかし、頭では一念三千・十界互具とわかっているつもりでも、"本当にそうだ"と心の底から納得し実感し確信することは、難事中の難事だと思います。
 大聖人は「本尊抄」で、悪世末法に生きる私たちに仏界が具わっていることこそ最も「難信難解(信じがたく理解しがたい)」であると繰り返し述べられています。
 森中 そして、爾前経や法華経の迹門・本門で膨大な因行と偉大な果徳が説かれている釈尊と同じ仏界の生命が、凡夫の生命の中にあるとは到底、思えないという最大の難問が示され、それに答える形で「受持即観心」の法門が明かされていきます。

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