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日蓮大聖人・池田大作

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万人に「永遠の法」を開く  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  斎藤 今年(2002年)の教学試験は、青年部教学試験(二級)と教学部中級試験が行われ、全国で約25万人の壮年・婦人・青年部の方々が受験しました。これだけ多くの方々が仏法を真剣に研鑽することは、学会の誇るべき伝統であるだけでなく、民衆の偉大なる哲学運動として社会的にも大きな意義があると確信します。
 中級試験の時は、先生に直接、受験会場で受験者を激励していただきました(9月29日)。本当にありがとうございました。
 池田 教学試験を受けられた方々、また役員の方々はじめ関係者の皆さま方に、改めて、ご苦労さまでしたと申し上げます。偉大な教学の研鑚を心から讃歎申し上げたい。
 森中 試験というと、受験者はどうしても緊張するものですが、先生から激励を受けて、皆さん、のびのびと実力を発揮できたようです。
 また、先生の激励は、居合わせた方々だけでなく、全国で受験した人、当日の運営に携わった人の大きな励みになりました。その時のお話は、私たちにとっても教学の重要な指針となりました。
 例えば「広宣流布のための行動。その力となる教学。ここにしか仏になる道はないのです」「仏法は、大宇宙の根本中の根本です。永遠の生命を貫く法則です」と言われています。
 池田 日蓮大聖人の仏法を奉ずる私たちは、大宇宙の根本の法則、すなわち妙法にのっとって生きることができ、また、その意義を御書を通して確認することができる。
 「信・行・学」の軌道によって妙法に直結できること以上にすばらしいことはありません。また、そこにしか、自受法楽という永遠の幸福を築く道はありません。
2  「永遠の法」に目覚めよ
 池田 自らが歩んだ幸福の軌道に全人類を直結させようとするのが、真の仏の行動です。
 釈尊は自分が妙法の当体であることを覚知しました。そして、あらゆる生命も同じく妙法の当体であり、同じ自受法楽を得ることができる存在であると知った。しかし、残念ながら、人々は真理に目覚めていない。さまざまな迷いに覆われて、愚行を繰り返し、苦悩に陥っている。
 自分と同じ可能性を持つ人々の生命を慈しむがゆえに、人々の苦悩を悲しみ、同苦する。そこで、万人に秘められた真理を人々にも自覚させていくために、法を語りに語り抜いていったのです。自分が悟った「永遠の法」に人々を目覚めさせていくために、「全人格」をかけて戦うのが仏なのです。
 斎藤 法華経の如来寿量品第十六では、釈尊の本地が明かされます。それは、分かりやすく言うと、「永遠の法」と一体になった「永遠の仏」であるということです。
 池田 釈尊は、「永遠の法」が、自身の生命のうえに顕現し、自身と一体となる境地を味わった。目覚めて見れば、自分自身が「永遠の妙法」の当体であり、「永遠に活動する仏」であると悟ったのです。この仏が、寿量品に説かれている「久遠実成の仏」です。
 森中 久遠実成の仏とは、計り知れないほどのはるか久遠の昔に成仏して以来、現実世界で衆生救済の活動を続けている仏です。これに対して、過去世で計り知れないほどの修行をして、今世で始めて成仏して、入滅すると涅槃に入ってしまうという始成正覚の仏が、諸経に説かれる普通の仏陀観です。これから比べると、法華経の久遠実成の仏は画期的な仏です。
 池田 「永遠の法」を悟った仏は、必ず永遠に民衆救済の活動を続けるということを示す画期的な仏陀観です。永遠性に対する考え方が違うのです。
 斎藤 涅槃の静寂に永遠性を見るか、慈悲の活動に永遠性を見るかの違いですね。
 池田 そうです。大聖人が、竜の口での発迹顕本の後、「御本尊」を顕されていかれたのも、凡夫として「永遠の法」と一体化した久遠元初自受用身の御境地を末法の人々に示して、人々を永遠の幸福の大道に導こうとされたからです。
 斎藤 末法万年にわたる救済の法として悟られた「永遠の法」を顕されたのですね。大慈悲をもってされたのですね。
 池田 その「永遠の法」を、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」と名付けられた。もっとも、南無妙法蓮華経は法の名であるとともに、その法と一体になった仏の生命、つまり大聖人の御生命の名でもあられる。いずれにしても、この法が諸仏の能生の根源なのです。ゆえに、釈尊や諸仏を本尊とするよりも、永遠の法を本尊とすべきです。
 大聖人は「本尊問答抄」で、「SB503E」と言われたうえで、「勝れた本尊とは教主釈尊ではなくて、教主釈尊・多宝如来・三世十方の諸仏が本尊とした法華経そのものである」(趣旨)と仰せです。
 森中 同抄には、こうも仰せです。
 「SB504E」
 一切の諸仏が「出生」した根源の法が法華経であると仰せです。法華経といっても、もちろん、厳密には南無妙法蓮華経のことです。
 池田 別の御書には、南無妙法蓮華経は「三世の諸仏の師範」であり、「十方薩埵の導師」であり、「一切衆生皆成仏道の指南」であるとも仰せです(1116㌻)。
 「永遠の法」と一体の「永遠の仏」が三世十方の一切の諸仏の師です。釈尊も、この法を悟り、この法を師として生き抜きました。これを「ダルマ」とも呼び、「如来」とも呼んでいます。
 また、入滅直前の釈尊が遺言として、「自身と法を依りどころとせよ」、と言った真意も、滅後の衆生をも「永遠の法」に結びつけようとしたことにあると思う。
 森中 法華経寿量品で久遠実成という本地を明かしたのも、法をよりどころとし、法を本尊とすべきであるということを示していますね。
 池田 法華経は、釈尊自身の「師」である「法」を真剣に求めていきなさいと民衆に呼びかけ、「法」に直結する道を教えている経典であると言えます。
 斎藤 そのこと自体が、偉大な宗教革命なのではないでしょうか。
 現代でも、仏とかブッダというと、遠くにいて悟りすまし、時たま、衆生のほうへ降りて来て教えを垂れる存在であり、そう説くのが仏教であると誤解している人がたくさんいます。
 森中 早い話が、「一番偉い」のが仏だという思い込みですね。しかし、仏が偉いのも、根源の法が素晴らしいからですね。
 もちろん、迷いの凡夫にとってみれば、「仏」がいるからこそ、真理の世界を知ることができる。それ自体が仏の偉大な功績です。
3  池田 要するに、仏とは、自身が悟り、師とした「永遠の法」即「永遠の仏」へと、民衆を導く人です。皆が「法」に直結できるよう目覚めさせるために戦い続ける人です。「永遠の法」はすべての人の生命の中にあるという深い洞察があります。その意味で、「永遠の法」こそ、全人類が結びあえる基盤なのです。
 第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所を体験した心理学者のフランクルは、数千年も前に「一なる神への信仰」すなわち「一神教」を生み出した人類は、現代においては、さらに一歩踏み出して、「一なる人類についての知」、いわば「一人類教」が必要になっていると言っています。そうでなければ、万人に妥当する生きる意味が見出せない、というのです。
 こうした志向性は、法華経に一歩近づいているともいえまいか。「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(開結176㌻)という釈尊の誓願に明らかなように、万人を仏と同じ境涯にすることを、仏法は目的とするからです。
 法華経寿量品で説かれた久遠実成の釈尊を、一神教の絶対神のような特別の存在と考えてはならない。そうではなく、万人が至るべき尊極の境地を示しているのです。その普遍性において、久遠実成の仏は、釈尊一人のことではなくて、普遍的な「法」の面を持っていると見ざるを得ないのです。「永遠の法」を指し示している点に、法華経の真価があるからです。
 法華経で、仏の生命が究極的な「法」と密接な関係にあることを示しているのが、題号の「妙法蓮華経」です。
 斎藤 この題号について、法華経には明確な説明がありません。しかし、一つの意義として、こう拝察できるのではないでしょうか。
 妙法蓮華経は、妙法の自在の力が、清らかな白蓮華のように何の汚れもなく、ありのままに開花している仏の生命を表現している。最も究極的で、最も根源的な仏の生命の表現であると言えます。
 池田 もし、法華経に「本尊」を求めるとすれば、久遠実成の釈尊よりも、この妙法蓮華経こそがふさわしいのです。このことを最初にはっきりと示されたのが大聖人です。大聖人の教えがなければ、法華経の本尊義は見失われていたでしょう。
 斎藤 釈尊の本地である「永遠の法」と一体の「永遠の仏」を表現するのが妙法蓮華経で、この成仏の根源を指し示しているところに万人の成仏を説く法華経の真価があるということですね。
 森中 しかし、時代とともに、その法華経の真価が分かる人が減少します……。法華経を読んでも、ただのお伽話か、遠い昔話としか受け止められないのです。あるいは、「釈尊は立派な仏だったんだ」とは思っても、「自分が仏である」とは思いもつきません。
 そこで、もっとダイレクトに「法」と直結する道が必要になってきます。

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