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日蓮大聖人・池田大作

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難即成仏と発迹顕本――苦難が人間本来の…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  刀の難・小松原法難
 斎藤 前節では、日蓮大聖人の四度の大難のうち、「立正安国論」の提出に伴って起きた松葉ケ谷の法難と伊豆流罪について語っていただきました。
 これらの法難では、法華経勧持品に説かれる三類の強敵のうち、俗衆増上慢と道門増上慢が登場しました。道門増上慢は念仏者たち、俗衆増上慢は念仏に帰依する北条重時・長時親子をはじめとする在家の者たちです。
 また、伊豆流罪に際しては、鎌倉の念仏者の首領であり、大聖人に論争を挑んで大敗した道教(道阿弥陀仏)が僭聖増上慢に似た行動を取ります。
 池田 本格的な僭聖増上慢は、言うまでもなく、文永8年(1271年)の竜の口法難と佐渡流罪において現れます。この法難においてこそ、本格的な僭聖増上慢が登場し、三類の強敵が結託して、恐るべき大弾圧を繰り広げるのです。
 大聖人は、仏法を曲げ、民衆を苦しめ、社会を誤った方向へ導く魔性と常に戦っておらた。いかなる魔性も恐れずに戦ってゆくのが仏の心です。
 その師子王の心で、文永8年の大弾圧も超えられていった。
 斎藤 その竜の口法難に入る前に、大聖人がはじめて「刀の難」を受けられた小松原法難について考察していただければと思います。お命にも及びかねない、この難を乗り越えられたのも、やはり、魔性と戦う強きお心ゆえであると思います。
 森中 伊豆流罪から戻られて間もない文永元年(1264年)の秋、大聖人は、病気中の御生母を見舞うため、また御生父の墓参のため、久し振りに故郷の安房に帰郷されました。
 文永元年8月、安房・上総で疫病が流行します。御生母は、この疫病にかかられたのかもしれません。
 池田 御生母は瀕死の重態であったようだが、大聖人の懸命の祈りで、蘇生し、寿命を4年延ばされたのだね。
 森中 大聖人は、9月22日、安房国長狭郡の西条花房の僧坊で「当世念仏者無間地獄事」を書いて浄円房に与えられています。このことから考えると、当時、しばらく花房に滞在され、若干名の弟子たちとともに故郷・安房の弘教に当たられたのかもしれません。
 池田 地頭・東条景信は、訴訟に負け、さらに後ろ盾の北条重時を亡くしたとはいえ、まだまだ勢力をもっていた。一触即発の緊迫した状況の中で、大聖人は弘教を続けられたのです。常に最前線に立ち、率先垂範で行動される御本仏であられた。
 斎藤 そして11月11日、景信はついに行動に出ます。後に大聖人は「SB483E」と回想されています。
 その日、大聖人は、西条花房から、天津に住んでいた工藤吉隆邸へ向かわれます。
 その途中、東条の松原という大路で、東条景信が率いる武装した念仏者が襲撃してきたのです。
 森中 その模様について、難の翌月に認められた「南条兵衛七郎殿御書」に次のように記されています。
 「SB484E」
 〈通解〉――11月11日、安房国の東条の松原という大路で、申酉の時(夕方5時頃)、数百人の念仏者ら待ち伏せされていて、日蓮は唯一人、十人ばかり共にいたが、役に立つ者はわずか3、4人であった。射かけてくる矢は雨のようであった。打ち合う太刀は稲妻のようであった。弟子一人がその場で討ち取られ、二人は大怪我を負った。
 私自身も斬られ、また打たれ、もはやこれまでというありさまであったが、どうしたことであろうか、討ちもらされて、今まで生きているのである。
2  斎藤 時刻は申酉の時といいますから、夕方5時頃。この日は、現在の暦でいえば12月1日に当たります。もうすっかり暗くなっていたでしょう。
 わずか10名そこそこの大聖人御一行は、おそらくは松明の明かりを頼りに道を急がれていたのではないでしょうか。
 池田 大聖人は、大胆にして細心であられる。十分、用心はされていたことでしょう。夕闇の中の出発です。また護衛となる人が混じっていた。情勢も緊迫はしていたものの、小康状態にあった時期です。
 斎藤 当時、僧を殺す罰(ばち)は恐れられていました。宿敵とはいえ、僧の命を狙うというのはよほどのことです。それを踏み越えさせたのは、大聖人を「念仏の敵」と見なす強烈な怨念だったのかもしれません。
 森中 急ぐ大聖人御一行の前に、大勢の暴徒が現れ、取り囲みます。大聖人は数百人と認識されています。大聖人御一行に、矢を雨のように降らせます。さらに稲妻のように刀をきらめかせて切りかかってきたのです。御一行のうち、応戦できるのは、わずか三、四人。弟子一人がその場で討ち死にし、二人が重傷を負います。
 伝承によれば、討ち死にしたのは鏡忍房です。重傷を負ったのは、左近尉すなわち工藤吉隆と、大聖人のもとで雑用をしていた左藤次郎です。工藤吉隆は、法難後ほどなく亡くなったと伝えられています。
 池田 この時、大聖人御自身も大怪我をされた。先ほどの御文に「SB485E」とあるが、具体的には「聖人御難事」に「SB486E」と仰せです。
 森中 額の傷は、癒えた後も四寸(約13㌢)の跡が残る怪我だったといいます。。
 池田 「SB487E」と御自ら認められているように、まさに危機一髪、九死に一生を得られた。
 まさに法華経に説かれる「刀杖」の難を身で読まれたのです。
 森中 それにしても、大聖人は、どうして、危険を冒して、東条の中心地をいったり来たりしていらっしゃるのか。これは謎です。
 ある伝承では、小松原ではなく、東条の宿所の前を通り過ぎた時に襲われたという。敵陣の真ん前を堂々と通り抜けようとされたというのです。
 たとえば、天津の工藤邸になぜずっと滞在されるという選択をされなかったのか?
 斎藤 一つには、御生母の病状との関係で、往還する必要が生じたからであるとも考えられます。一度、訪ねて祈られて、よくなった。ところが、また悪化した知らせがあって、赴いたのではないか。
 森中 あるいは、一度少人数でこっそり行って、比較的安全な裏道などを確保したうえで、攻めに転じて、弟子を引き連れて弘教を推進しようとされたのかもしれません。
 まるで、景信を挑発しているようですが、慎重で用意周到な反面、難を呼び起こして正邪を決する大胆さは、大聖人らしいのではないでしょうか。
 斎藤 いや、景信は、見境のない凶暴な相手です。大聖人もやはり慎重になられていたと思います。安易にはいえません。
3  池田 この点については研究課題としておこう。伝承が間違っている可能性もないわけではありませんから。
 それよりも、この大変な襲撃の中で、辛くも大聖人の御命が助かった。それはどうして可能だったのか。おそらく、大混戦となって、その隙に夜陰に紛れ、山道を通って避難されたのではないだろうか。
 森中 これを考えるうえで、大事なのが、法難が起きた場所です。「東条松原と申す大路」とは一体、どこなのか。それによって答が違ってきます。
 斎藤 まず、現在、法難跡といわれているところは、現在の鏡忍寺がある小松原と呼ばれる一帯です。東条の中心や景信の館跡といわれるものよりも、ずっと離れた、東条の地域の西のはずれです。花房からは待崎川をわたってすぐのところです。この川が、西条と東条の境界と思われます。領地に入ってすぐのところで待ち構えていた景信一味が襲ったというのは分かりやすいですね。
 池田 大聖人が逃げられる際は、襲撃をかいくぐって川を渡りきり、西条の領域に入り、安全を確保されたのかも知れません。
 森中 一方、別の伝承では、館を越えた後で襲撃されたとされています。ずっと東になり、どちらかというと天津に近くなります。東条の地域の東のはずれです。
 池田 御書には「東条松原と申す大路」と仰せで、小松原とはいわれていない。小松原の遺跡は寺を建ててからできた伝承による可能性もある。
 森中 その場合、「東条松原と申す大路」とは、松林が連なる当時の街道ではなかったでしょうか。もしかすると、今の天津小湊田原線は、花房から東条を通過し天津へ向かうまっすぐな道なので、案外、この道がそうかも知れません。
 そうしますと、景信らが待ち伏せするには、一行が絶対通過する地点、すなわち山と海が迫る東のはずれです。それで、大聖人が逃げる時もすぐに山中に入って遁れられたという考えも可能ですね。
 池田 ともあれ、大聖人が難を切りぬけることができた理由としては、襲った集団の質の問題が考えられます。
 「妙法比丘尼御返事」には激しい戦闘があったゆえに「合戦」と仰せですが、襲ってきた集団は、確かに武器をもってはいたものの、全員が鍛えられた武士の軍勢というわけではなく、実態は、地元の念仏者を中心とする無頼の徒党であったかもしれない。
 大聖人は、刀で額に傷を受けるとともに、棒などで打たれて左の腕を骨折されています。棒だけを持っていた者もいたのではないか。
 斎藤 未訓練の者が多い軍勢であれば、大聖人側も三、四人の戦闘経験がある者だけで、しばらくは持ちこたえることもできますね。そこへ工藤吉隆の手勢が駆けつけてきた。場所が東条の東側であれば工藤邸から2㌔㍍くらい、小松原でも4㌔㍍ぐらいです。馬を飛ばせばそれほどかかりません。こうして、乱闘にはなったものの、かろうじて助かることができたと思われます。
 森中 伝承によれば、工藤吉隆の手勢は50騎といいます。訓練された兵士の援軍に驚いて逃げた者が多かったのではないでしょうか。
 その混乱の中で、地元でおそらく土地勘もあられた大聖人は、一行とともに避難できたのでしょう。
 あるいは、工藤吉隆に大聖人の危機を知らせたのは神僧と伝えられます。おそらく清澄寺ともかかわりのある修験者でしょう。その仲間がうまく山道を手引きしたのかもしれません。

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