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日蓮大聖人・池田大作

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師も弟子もともに不二の師子吼を  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  日蓮仏法は師子王の宗教
 斎藤 今年(二〇〇二年)の八月二十四日は、池田先生の入信五十五周年の佳節となります。
 この五十五年間、会員のため、広布のため、世界の平和のために、まさに激闘に次ぐ激闘の連続で、日本の、そして世界の広宣流布の盤石なる基盤をつくっていただきました。どれほど感謝してもしきれません。
 森中 そして、今、いよいよ「青年の時代」が到来しました。師の心を真一文字に受け継いで広布の指導者として戦っていく後継の弟子が陸続と誕生しゆくことを、世界中の同志、そして各界の識者が待っています。
 そうした意味で、今月は御書における「師弟」「広布の指導者」について語っていただければ幸いです。
 池田 わかりました。ただ、師弟論といい、指導者論といっても、論ずべきことがあまりにも多い。そこで、本章は、御書における師弟論の核心である「師子王の心」について拝察したい。
 「師子王」であられる大聖人の心を真っ直ぐに受け継いでいくのが師弟不二です。そのとき、私たちは「師子王の子」といえるのです。また、「師子王の心」は仏法における指導者の根本条件でもあります。
 斎藤 師子王の心とは、法を守るためには、どんなに恐ろしい強敵も恐れずに戦っていく勇気ですね。
 池田 「勇気」です。勇気であるとともに、勇気を起こした生命に現れ出てくる「本源的生命力」です。わかりやすく言えば「生命の底力」です。
 勇気をもって法を守る戦いをすれば、その勇気の力で、心を覆う無明(根源の迷い)のベールが破れ、法の無限の力がわが生命から現れ出てくるのです。妙法と一体の仏界の生命です。勇気によって、本源的な生命力と自分が結びつくのです。
 それはまた、いかなる絶望的な状況にあっても、決してくじけない「生命本源の希望」です。「生き抜く力」です。
 人は、死、運命、迫害、苦難、病、破綻、破壊などの影が忍び寄ってきたときに、恐れ、おののき、臆病、嘆き、不安、疑い、瞋りなどに支配される。このような陰影を晴らすのが「内発的な希望」の力です。
 「一人立つ」とは、この内発的な希望を現して、揺るがぬ自分になることです。それが指導者の根本条件です。自分のなかにこんこんと希望の泉が湧き起こっているからこそ、共に働き、共に戦う人々に希望を与え続けていくことができる。希望を与えることが指導者の根本的な使命です。
2  森中 「SB426E」ですね。
 池田 そうです。ナポレオンは「リーダーとは『希望を配る人』のことだ」と言った。大いなる希望を呼び覚ましてこそ、大いなる事業を成し遂げることができるのです。
 皆の「心」を変えることこそ、リーダーの役目です。単に人が集まっているだけでは、「心」はバラバラの方向を向いている。カオス(混沌)の状態です。その「心」を一つの方向に向けて、団結させ、前進させていく。いがみ合う「心」を結び合わせ、臆病にとらわれた「心」を奮い立たせ、無力感にさいなまれた「心」に確信の炎を点す。そうした「心」のリーダーシップが求められているのです。
 ガンジーの非暴力の人権闘争を継承し、アメリカの公民権運動を指導したキング博士は、こう訴えました。
 「前途の日々は困難である。だが私は希望を失ってはいない。これだけが私を今前進させ続けている」(ジェイムズ・H・コーン著、梶原寿訳、『夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX』、日本基督教団出版局)
 わが生命のなかに、不屈の行動の源泉があるのです。この内なる源泉は何ものも奪い去ることはできない。「内発の力」によるなら、決して負けることはない。反対に、見せかけ、かりもの、おしきせであれば、容易に化けの皮がひきはがされる。
 「虎の威を借る狐」は臆病です。「一人立つ師子」は不屈です。
 斎藤 私たちで言えば、広宣流布という大願に生きることですね。大願に目覚めれば、どんな宿命の苦悩も、使命を果たす歓喜に変えていくことができる。
 池田 法理的に言えば、「師子王の心」とは、「信心」で生命奥底の「元品の無明」を打ち破って、「元品の法性」の力を現した生命のことです。
 「強い信心」によって無明を破ったときに涌現する「仏界の生命」であると言ってもよいでしょう。ゆえに、仏の生命に現れる智慧や慈悲も具わっています。
 信心は原因であり、仏界の生命は結果です。因果が一念に収まっているのです。
3  斎藤 因果倶時ですね。
 池田 そうです。したがって、この「師子王の心」こそ、本因妙の仏法である日蓮仏法の真髄と言ってよい。
 森中 御書を開くと、大聖人が師子王について述べられている個所は、本当に多いことが分かります。有名な御書でも、「佐渡御書」「聖人御難事」「経王殿御返事」「閻浮提中御書」などがあります。
 斎藤 いずれも大聖人御自身の御本仏としての御生命を、皆にわかりやすく教えるために、師子王に譬えられたと拝察できます。
 池田 まさに、日蓮仏法は「師子王の宗教」です。なぜ御自身を師子王になぞらえているのかといえば、根本的には、御自身の生命に仏界が涌現しているからであると拝察できます。仏典を見ても、師子王は仏の象徴とされているね。
 森中 はい。仏の座は「師子座」、仏の説法は「師子吼」と呼ばれることがあります。
 池田 師子(獅子)=ライオンを象徴にしているのは、何らかの共通のイメージをもっているからです。そこで、ライオンというと、どのようなイメージが浮かぶか考えてみよう。
 森中 まずは「王者」のイメージです。ライオンは、古来、一般にも、「百獣の王」とされています。大聖人も「千日尼御前御返事」で、「地走る者の王」と仰せです。
 ライオンはネコ科の猛獣ですが、そのなかでも最も大きく、特にオスには見事な"たてがみ"があります。
 斎藤 昔は、相当広い地域で生息していたようです。二千年前には、ヨーロッパのイベリア半島や北ギリシャにも野生のライオンがいたとも言われます。
 池田 古代では、不老不死の象徴ともされていた。
 森中 はい。メソポタミアでは、ライオンの毛皮と脂には不老不死の威力があり、それを身につけると不老不死になると信じられていました。
 池田 ギリシャ神話の英雄・ヘラクレスもライオンの毛皮を身にまとい、ライオンの頭を兜にしているね。
 インドに遠征したアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)も、師のアリストテレスから「ライオンのようになれ」と励まされている。それで、ライオンの目を鎧に描き、ライオンの兜をかぶったとも言われています。
 斎藤 また、ライオンの黄金のたてがみが「太陽」と見なされていたこともあったようです。
 森中 ライオンの目は、「見張り」の象徴ともされていました。また、ひと睨みで敵をすくませ、石のようにしてしまうと信じられていました。そこから城門の守護神とされ、インドのサーンチーの仏塔の門でもライオンが刻まれています。
 池田 星座にも、獅子座があるね。最近では、昨年(二〇〇一年)の十一月十八日前後に見事な流星群のショーを見せてくれている。
 斎藤 先生と対談したブルガリアのジュロヴァ博士は、ライオンは「ロゴス(言論)の力」「悪に対する勝利」「善行への報い」「不死の希望」などの象徴である、と語っています。
 池田 まさしく師子は「善なる力」の象徴なのです。経典には釈尊のことを「聖主師子」と説かれている。また、アショーカ王が遺した王柱の柱頭にライオンが刻まれているのは有名だ。
 森中 釈尊の初転法輪の地・鹿野苑の遺跡のあるサールナートにあるアショーカ王柱の柱頭にも、四面に向いたライオンと法輪が刻まれています。

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