Nichiren・Ikeda
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久遠の誓に生きる同志の勝利の連帯
講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)
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1 師弟の縦糸と異体同心の横糸が織り成す錦
斎藤 峻厳なる師弟の月、七月を迎えました。七月の三日を中心に、身を賭して権力の魔性と戦われた三代会長の師弟の魂が刻まれています。何としても民衆の幸福を実現していくという「広宣流布」の精神が輝いています。
池田 仏法の師弟は「法」を根本とした人間対人間の関係です。
一般に師弟関係は、知識、技能、技芸など、師から弟子へと伝えるべき"何か"があるときに成り立つ人間関係です。仏法の場合は「法」がそれです。「法」を正しく実践し、確かに伝えていくためには、どうしても師弟の関係が必要です。
大聖人は御自身の実践においても、門下への信心指導においても、「法に依って人に依らざれ」との戒めをどこまでも大切にされた。
そして、法華経を如説修行する法華経の行者をこそ「SB408E」と言われた。
私どもの信心は、どこまでも「法」が根本です。法を実践し、法を弘める――一生成仏と広宣流布という崇高な大目的を成就するために、皆が心を合わせ、団結して活動を進めていく必要がある。
そのために、どうしても「法を正しく行ずる師」が必要なのです。
ゆえに日興上人は、「師弟を正さなければ成仏はない」と厳しく言われています。
森中 師弟こそ、令法久住のための永遠の方程式ですね。
池田 師弟の絆のほかに、法を根本にした人間と人間の絆は、もう一つあります。それは、同志の絆です。その最高の在り方が「異体同心」です。
仏法の和合僧は二つの面から見ることができます。
それは、織物の縦糸と横糸に譬えることができるでしょう。
織物を織る機では、まず縦糸を張る。そこに横糸を通して、布を織り上げていく。
縦糸に当たるのが、「師弟」です。横糸に当たるのが、「同志」です。
この二つが綾なして、見事な広宣流布の錦が綴られていくのです。ごく一部の例外を除いて、多くの織物では、縦糸は布の骨組みをなすものです。模様を描き出すのは、横糸です。
学会の組織もまた、根本の師弟の絆に支えられていればこそ、弟子の連帯の素晴らしい人間模様も描けるのです。
森中 同志という言葉は、「志を同じくする人々」という意味です。同じく同志といっても、その志に高低浅深の違いがあります。
池田 そうです。そこが大事です。
学会の同志は、「広宣流布」の同志です。世界広布という高い志を同じくする友の連帯です。自身の一生成仏を信じ、万人の成仏を願う心です。具体的には、同じ御本尊を信じ、広布に生きることです。「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)です。
本章では、この「異体同心」の団結について語っていこう。
2 互いを活かす「水魚の思い」
斎藤 まず、「生死一大事血脈抄」には、次のように異体同心の重要性を指摘されています。
「SB409E」
〈通解〉――総じて日蓮の弟子檀那らが、自分と他人、彼と此との分け隔てなく、水と魚のように互いに助け合う心で、異体同心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。しかも、今、日蓮が弘通することの肝要は、これである。もし、この通りに実践するならば、広宣流布の大願も成就するであろう。
池田 ここで、大聖人は、門下が自他の分け隔てをすることなく、互いに支えあい、励ましあう異体同心の信心で、南無妙法蓮華経と唱えていくところに、生死一大事の血脈がある、と示されています。
また、この異体同心の信心で唱える題目こそ、大聖人が「弘通する処の所詮」であるとされている。そして、この異体同心の信心によって、広宣流布の大願も叶うと仰せです。
斎藤 大聖人は、それほど「異体同心の信心」を大事にされていたのですね。
池田 戸田先生も、「生死一大事血脈抄」のこの一段を、常々、大切にされ、後世のために、厳として講義されていた。そして、この大聖人の血脈が、脈々と流れ通う広宣流布の和合僧こそ創価学会なのであると、凜然と訴えられていた。
「戸田の命よりも大切な学会の組織」を何ものにも破らせてはならないと、師子吼されていた。
創価学会は、永遠に、異体同心の団結で勝っていくのだ、とも言われていた。
仏意仏勅の学会を守り、強めていく以外に、広宣流布は絶対にあり得ないことを、先生は、烈々たる気迫で、「遺言」として訴えられたのです。
信心の団結こそ、広布の要諦です。
3 森中 この御文では、「自他彼此の心」がなく「水魚の思」を成す状態が「異体同心」であるとされていますね。
池田 「自他彼此の心なく」とは、同じ大聖人門下同士で、相対立し排斥しあう心がないことです。「水魚の思を成し」とは、互いをかけがえのない存在、自分にとって不可欠な存在として大切に思う心、互いを活かす心といえるでしょう。
このように、心を一つにして互いに助け合うさまが、「異体同心」です。
「水魚の思」という言葉は、『三国志』の「君臣水魚の交わり」が有名だね。"諸葛孔明(水)を得た劉備玄徳(魚)は大きく飛躍し、また孔明も自らの力を十分発揮し得た"という故事に基づく成語です。互いに支えあい、助けあうことによって、個性や持てる力を大きく発揮していく関係です。
森中 「団結」が強調されると、ともすれば、「個人・個性」は押しつぶされ埋没してしまいます。しかし、大聖人の異体同心は違います。
個性の抑圧は、万人に仏性ありとして一人ひとりを尊ぶ法華経の精神に反します。
池田 あくまでも、すべての人の個性が重んじられ活かされていく団結を、大聖人は「異体同心」という言葉をもって見事に示されているのです。
斎藤 一般にも、さまざまな組織論が説かれています。しかし、一人の力を最大限に発揮させる組織の最高の原理は「異体同心」であると思います。
池田 その通りです。「異体同心」こそ、人間を尊重し、人間の可能性を最大限に開花させる、最高の組織論といえる。
「異体」――各人は、使命も適性も状況も違っている。
「同心」――しかし心は一体でいきなさいというのです。
「異体異心」では、バラバラになってしまう。
「同体同心」というのは、個性を認めぬ集団主義であり、全体主義になってしまう。これでは、個々の力を発揮させていくことはできない。
森中 「異体」でありながら「同心」で一致する、「同心」を基礎として「異体」が活躍する。これが、理想の組織ですね。
池田 使命のない人などいません。一人ひとりに偉大な可能性がある。それを実現させるには、どうすればいいのか。
一人が人間革命すれば、皆に勇気を与える。希望を与える。確信を与える。触発が触発を生み、その連鎖によって、偉大な変革のエネルギーが発揮されるようになる。