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日蓮大聖人・池田大作

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「強き信心」で「大いなる希望」に生きぬ…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  「何のために生きるか」を万人が希求
 斎藤 池田先生が歴史学者・トインビー博士との対談を開始されてから、本年(二〇〇二年)五月五日で三十周年を迎えました。
 この対談集『二十一世紀への対話』は現在、二十四言語に翻訳され、その深く広い識見に基づく英知の語らいは、世界各地に大きな反響を広げています。
 池田 言うまでもなくトインビー博士は、二十世紀最高峰の歴史学者であられた。
 その博士が「宗教とは何か」「人間とは何か」「生命とは何か」などの根源的なテーマを真剣に探究されていた姿は忘れられません。博士の歴史研究は、歴史的事象を通して「宗教」「人間」「生命」の本質に迫っていかれた。博士と私との対話が結実したのは、その最も根源的関心が一致していたからであると私は思っています。
 森中 池田先生の対話は三十年後の今日もなお続いています。最近も、世界的な化学者であるインドのカティヤール博士との対話が行われました。その語らいを感銘深く読みました。
 博士は言われています。
 「釈迦は、継ぐべき王位を捨て、家族とも離れて、人々を救う道を求めました。しかし、その深き意義を、インドの人々の多くは知りません。今の私たちは、考え方が、あまりに西欧化されてしまって、"どうすれば、もっと富を得られるか"に、とらわれがちです。その意味で、インドにとって重要なのは、仏教を"再輸入"すること、そして、もう一度、仏教に目を開くことではないでしょうか」
 まさに、日蓮大聖人の御予言通りに、「仏法西還」の時代が本格的に到来していることを実感します。今日、続々と世界の一流の知性と先生の対話が展開されています。先生は三十年にわたって対話の重要性を身をもって示してくださっています。
 池田 カティヤール博士は、ご専門の生化学や分子生物学の見地から、生命の本質に鋭く迫っておられた。しかし、それ以外の、教育であれ、国際情勢であれ、どんな質問をしても、的を射た答えが返ってくる。「インド科学者会議」の会長も務められた博士は、文字通り、インドを代表する知性の方です。
 斎藤 世界的な指導者と池田先生の対話は、魂と魂が響き合い、一つの和音を奏でているような印象を受けます。宗教も、民族も、文化も異なっているのに、どうすれば、こんなふうに語り合えるんだろうかと、いつも驚嘆します。
 池田 どこの国の人であれ、民族、言語、宗教等の違いはあっても、同じ人間として、平和を願い、幸福を求めています。
 ですから、一流といわれる人ほど、「生老病死」という根本問題に真摯に向き合い、謙虚に解決の方途を求めている。
 森中 だから、打てば響くようなやりとりになるのですね。
 釈尊が、継ぐべき王位も家族も捨てて出家したのも、「生老病死」という現実を知ったからだといわれています。「四門出遊」という、有名なエピソードが伝えられています。
 池田 人生、何のために生きるのか。
 戸田先生は、牧口先生の「価値論」を踏まえて言われていた。
 「現代の社会における最大の弊害は、目的観の不確立にある。人間は何のために生きているのか、いな、自分は何のために生きているか。日常生活においても自分の行き先がわかっているならば、交番へ行って道順を聞くもよい。しかし自分自身の行き先がわからないで、『どこへ行ったらよいか』などと聞いたなら、笑い草ではないか。しかるに人生行路においては、だれ一人目的なしに生きているのは不思議でもあり、奇怪でもある。社会生活の混乱と低迷の根源は、じつにここに根ざしているのである」(『戸田城聖全集』第三巻)
 「そこでわれわれは、政治も経済も教育も文化もすべて統一した最高唯一の目的はないか、と探し求めなければならない。しかもその目的が、観念や『来世の天国』というがごとき空論でなく、現実の生活を固く規律する最高の目的が提示され、しかも実践によって一歩一歩生活の上に実証されるならば、これこそ万人の希求するところであるといわねばならない」(『戸田城聖全集』第三巻)
 本当に鋭い先生でした。現代社会の混迷の急所を押さえておられた。
 日蓮大聖人の仏法では、人生の目的を「一生成仏」と教えている。きょうは、この「一生成仏」をテーマに語り合いたい。
2  宗教とは「人生に対する態度」
 斎藤 トインビー博士は、先生との対話のなかで、「宗教とは何か」について語っています。
 「私のいう宗教とは、人生に対する態度という意味で、人々が人間として生きるむずかしさに対処せしめてくれるもののことです。すなわち、宇宙の神秘さと人間のそこでの役割のむずかしさに関する根本問題に、精神的に満足のいく解答を示すことによって、また、この宇宙の中で生きていくうえでの実際的な教戒を与えることによって、人生の困難に対処せしめるもののことです」(「二十一世紀への対話」『池田大作全集』第三巻)
 池田 確かに宗教は「人生に対する態度」を教えるものでなければならない。
 「人間らしく生きる」。これは本当に難しいことです。人生は変化、変化の連続である。諸行無常です。生老病死は誰人もまぬかれられない永遠の課題です。
 文豪ユゴーは、「人間の生活には、最も多幸なものでも、その真底には常に喜びよりも多くの悲みがある」(本間武彦訳、『ユゴー全集』第十一巻)と言っています。確かに、それが人生の実相かもしれない。その厳しき現実のなかで、「人間らしく生きたい」「よりよく生きたい」と、心の奥底で願い、行動しているのが人間です。その「人間の祈り」への答えが宗教です。祈りが先にあって宗教が生まれたのです。
 この人間の祈りに対する日蓮大聖人の答えは何か。人生に対するいかなる態度を教えられているか。それこそが、一言で言えば「一生成仏」です。
 森中 「一生成仏」とは、この一生のうちに必ず仏になれるということですね。
 池田 そう。大聖人は、稲に早稲と晩稲の違いがあっても一年のうちに必ず収穫できるように、どんな人も本来、如来であり、早い遅いの違いはあっても、一生のうちに必ず仏界の生命を現すことができると仰せです。
 言い換えれば、今の自分の一生は、仏になるためにあるということです。
 斎藤 一生成仏は、私たち一人ひとりが、この一生のうちに現実に成仏できるという思想ですが、実に衝撃力がある教えです。わが人生の重みが一段と増すように感じられます。そして、にわかに「成仏とは何か」「具体的にどのような姿、生き方になるのか」という問いが切実なものとして迫ってきます。
 森中 現代人にとって、「仏に成る」と言っても、どこか"遠いお話"に聞こえるのではないでしょうか。日本ではまだ、仏様=死人、という考え方も根強いですから、生きている人が「仏に成る」なんて言われると、キョトンとされるか、怒られるかどちらかです(笑い)。
 池田 確かに「SB397E」です。現代人に説明するのは至難の業かもしれない。しかし、どう現代人に理解させていくか、挑戦しなければ広宣流布は進まない。皆が分かり、語っていける言葉が生まれれば、広布の加速度はさらに増していく。それが教学の重要な使命の一つでもある。
 斎藤 幸い、学会には、「仏とは生命なり」という戸田先生の悟達に基づく、教学の現代的展開の伝統があります。また、数知れない学会員の研鑽・実践・実証の積み重ねがあります。その思想的財産を生かしていくこともできると思います。
 まず、私たち学会員にとって、成仏の手本は、いうまでもなく大聖人のお振る舞いのなかにあります。あの竜の口の法難の際のお姿や、佐渡でのお姿こそ、最高の成仏の実証ではないかと思います。
3  池田 そのことについては、戸田先生も語られたことがあります。
 大聖人は「開目抄」で、「SB398E」と仰せです。また、「諸法実相抄」では「SB399E」とも仰せであられる。
 流人という社会的境遇にあり、自然環境、生活環境なども最悪の状況にあって、命も危ないというような時に、日本で一番に富める者だと宣言されている。これは重大なことです。
 森中 かつて先生が、創価大学の講演で流刑について語られたことがあります(「歴史と人物を考察――迫害と人生」一九八一年十月三十一日。本全集第1巻収録)。私は、学生としてこの講演を聞きました。
 先生は冒頭、オーストリアの作家・ツヴァイクの次の言葉を紹介されました。
 「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか?(中略)だが自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人にはその全突進力があたえられるのだ」(山下肇訳、『ジョゼフ・フーシェ』)
 斎藤 簡単に言うと「流罪という奈落の底を体験した人は、かえって人間生命の底力を知ることがある。そのとき、その人は流罪をも讃嘆して歌うことができる」という意味ですね。
 池田 このツヴァイクの言葉は、大聖人の先ほどの「開目抄」などの一節に通じていくと思う。
 大聖人は、現実には、幕府から迫害された流人です。しかも、大聖人の正義の声は、幕府だけでなく日本中の人々も理解できなかった。門下も多くは退転し、残った者はごく一部です。さらに言えば、その残った門下も、ひたぶるな思いで大聖人に付きしたがっているが、どこまで大聖人の真実を正しく理解していたか、心もとないものがあったのではないだろうか。
 斎藤 普通だったら、悔恨や挫折、あるいは社会への恨み、自分が理解されないことへの嘆きなどが出てくるものだと思います。
 命を賭した二十年にわたる闘争とは一体何だったのか。何を残したのか。何人を救うことができたのか。現実の日本を変えられたのか。自身の根底を崩していくような問いかけをして、絶望と不信の淵に沈んでもおかしくない厳しい状況にあられたのではないでしょうか。

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