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日蓮大聖人・池田大作

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民衆本位・人間主義の「安国」観  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  安国とは「民衆の安穏」
 斎藤 引き続き、「立正安国論」を巡ってお話を伺いたいと思います。
 前節は「立正」(正法を立てる)を中心に語っていただきましたので、本節は「安国」(国を安んずる)を中心にお願いいたします。
 池田 はじめに前節の復習も兼ねて「立正」と「安国」の関係を簡潔に述べると、「立正」は「安国の根本条件」であり、「安国」は「立正の根本目的」であると言えるでしょう。
 日蓮大聖人が「立正安国論」で言われる正法とは「SB383E」、すなわち、すべての民衆が仏性という根源の力を開いて成仏できると説く法華経の法理にほかなりません。この法華経への強い信を立てることが、「個人における立正」です。言い換えれば、一人ひとりが自他共の成仏をめざしていくことである。
 また、実際に、末法の凡夫が仏界を涌現していける法である「三大秘法の南無妙法蓮華経」を受持することが、「立正」の根本の実践です。
 さらに、法華経から帰結される「人間への尊敬」「生命の尊厳」の理念が、社会の万般を支える哲学として確立されることが、「社会の次元における立正」です。
 次に、「立正」の目的である「安国」とは、民衆が幸福に安穏に暮らし、自身の人間性を最大に開いていける平和な社会を実現することです。
 要するに、「民衆の安穏」「民衆の平和」こそ、大聖人が言われる「安国」の本質です。当然のことながら権力者や特権階級だけの安泰をいうのではありません。
 森中 「国を安んずる」といっても、その「国」の中身をどう捉えるかで、その意義は大きく変わるということですね。民衆中心の国か、権力者中心の国か。この点こそ、多くの人が「立正安国論」を読み誤ったもっとも大きな理由であると考えられます。
 斎藤 日本の仏教は、伝来以来、鎮護国家といって、要するに「支配者の安泰」を第一に祈る仏教でした。この場合の国とは、支配者中心の権力構造としての国家のことです。
 大聖人の「立正安国」を、この旧来の鎮護国家と同様のものと考えてしまう人が多いようです。しかし、大聖人の時代には、そういう旧来の国家仏教は、権力者たちと同等の権益を持って権勢を誇っていたものの、宗教的には破綻していました。
 その国家仏教の破綻を象徴するのが、大聖人が聖誕される前年に起こった承久の乱でした。盛んに祈祷を行った朝廷側があっけなく負けてしまったからです。
 大聖人は、御幼少のころから、このような祈祷仏教あるいは国家仏教というべき在り方に疑問を持たれていました。そして、それを超えたのが大聖人の「立正安国」であると思います。
 池田 そうだね。大聖人は、民衆に根源から活力を与えることを説く法華経、そして、その真髄である南無妙法蓮華経を末法の正法として弘め、民衆の安穏と平和を実現しようとされたのです。
 この「民衆中心の安国」の考え方を映し出しているのが、「安国論」の冒頭で、客と主人が民衆の悲惨と宗教の無力を嘆く最初の問答です。
2  全世界から悲惨の二字をなくしたい
 森中 はい。その「安国論」冒頭の客の言葉の一部を拝読いたします。
 「SB384E」
 〈通解〉――旅人が訪れて嘆いて語る。数年前から近日に至るまで、天変地夭が天下の至るところで起こり、飢饉・疫病が広く地上を覆っている。牛馬が巷に行き倒れ、骸骨が道にあふれている。死を招いた者が大半を超え、悲しまない者など一人もいない。
 また、こうも仰せです。
 「弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」(同)
 〈通解〉――ますます飢饉・疫病が広がり、物乞いをしてさすらうものが目に溢れ、死人が眼を満たす。屍が積み重なって物見台となり、横に並べられて橋となるほどである。
 池田 簡潔な御文ですが、想像を絶する悲惨さです。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど時代の生命力が弱っていたかがわかります。どれほど民衆は苦しんでいたことか。
 森中 特に正嘉元年(一二五七年)から、「安国論」を提出した文応元年(一二六〇年)に至る四年間に、深刻な大災害が続いています。正嘉元年の八月には鎌倉に大地震、翌年には大風、洪水などがあり、その翌年には全国的な大飢饉と大疫病が起こって、次の年まで続き、民衆は完全に打ちのめされていました。
 池田 客の言葉に答えて主人は「SB385E」と述べています。
 「胸臆に憤悱する」というのは、悲しみを通り越して憤りがどうにも収まらないことです。これは、大聖人の御心を、そのまま述べられたものと拝することができます。
 まさに「同苦」の心です。
 斎藤 大聖人は、当時の民衆の塗炭の苦しみを直視し、その実態を客の嘆きとして、赤裸々に語られています。困苦の極み、悲惨の極致にあえいでいた民衆を、大聖人は、何としても救おうとされたのですね。
 池田 この懊悩する民衆への「同苦」こそ、「安国論」の根本です。
 これは単なる感傷でもなければ、単なる同情でもない。民衆を幸福にすることが仏の使命です。民衆を不幸にする根本の魔性を打ち破る戦いがなければなりません。そのために実態を直視されているのです。
 救うべきは苦悩にあえぐ民衆であり、戦うべき相手は、民衆を苦悩の底に突き落とした魔性です。
 戸田先生は、昭和三十二年の「大白蓮華」新年号に、こう記されていた。
 「願わくは、吾人と志を同じくする同志は、世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたいものと考えて、望み多き年頭をむかえようではないか」(『戸田城聖全集』第三巻)
 悲惨の二字を世界からなくしたい――。
 そのために民衆を苦しめる魔性とは、どこまでも戦っていく。それが仏の心です。また、丈夫の心です。この心に立脚せずして、広宣流布の指揮はとれません。
 いずれにしても、「安国論」の冒頭には「安国論」御執筆の動機が記されているが、その根本は「民衆への同苦」です。とすれば、目指すべき「安国」とは、何よりも「民衆の安穏」であることは明らかです。
 森中 その傍証として、既に幾度も指摘されていますが、大聖人が「立正安国論」の御真筆で用いられている「くに」の漢字が、重要な示唆を与えています。
 安国論では「国」「國」そして「囗民」の三種の字が用いられています。
 「国」は「王」が領土の中にいることを示す字です。「國」の字の中には「戈」という武器が記されています。武器で領土を守る姿を示したものとされます。
 しかし、安国論では約八割が「囗民」という字を用いられています。
 池田 「民衆が生活する場」としての国を意味する字だね。民衆の幸福を根本とした国のあり方を示唆されているといえるのではないだろうか。
 また、大聖人は、国主と民衆の関係について「SB386E」と仰せです。政権は民の支えを得ていなければ、倒されてしまいます。民衆こそ王を生み、育む親です。
 斎藤 権力者は「SB387E」であるとも仰せです。親ともいうべき民衆を守り、その手足となって奉仕してこそ、王は人間として尊敬されるものといえます。
3  民衆本位の立場から権力者に直言
 池田 大聖人の民衆本位の思想は明らかだね。
 「立正安国論」の前年に著された「守護国家論」の冒頭では、「SB388E」を知らざる国主は三悪道に堕ちると明言されています。
 大聖人は、諫暁の書「立正安国論」を、当時の最高実力者である北条時頼にあてて提出しました。
 諫暁は、絶対的な権威・権力への異議申し立てです。命に及ぶ大難への壮絶な覚悟がなければ、成し遂げることはできない。それでもあえて、大聖人は諫暁されたのです。
 それは、当然、民衆救済の思いが止み難かったからです。とともに、時頼という人物にも一分の希望を持たれていたと拝される。確か、時頼が執権だったころ、民衆のために種々の政策を行っているでしょう。
 森中 はい。宝治二年(一二四八年)閏十二月二十三日には「(百姓らに)田地ならびにその身を安堵せしむることこそ、地頭の進止(=行動規範)たるべし」(「吾妻鏡」『新訂増補国史大系』第三十三巻、吉川弘文館)と、民衆に対する武士の横暴を戒めています。
 また建長三年(一二五一年)六月五日には、幕府高官の贅沢が民衆を苦しめていることを戒める命令も出しています。
 池田 質実剛健の気風だったのだろう。『徒然草』などにも、時頼が、かわらけ(素焼の陶器)に残った味噌を肴として満足して酒を飲んだ逸話が記されているね。
 また、時頼は、唐の発展の基盤を確立した太宗の言行録『貞観政要』を重要視していました。同書では、名君の条件として、「我が身を正すこと」と「臣下の諫言を聞き入れること」を一貫して述べています。
 斎藤 ですから、時頼が意見を聞く姿勢を重んじる人であったので、大聖人は宿屋入道を通じて「立正安国論」を届けられたのではないでしょうか。
 池田 「撰時抄」によると、その際に、「安国論」で書かれた念仏破折だけではなく、時頼が傾倒していた禅宗の破折も宿屋入道を通して伝えられているね。

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