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日蓮大聖人・池田大作

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「民衆の幸福」「社会の平和」を開く「正…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  学会は永遠に「御書根本」の正道を
 斎藤 本年(2002年)で御書発刊五十周年を迎える意義は幾重にも語ることができると思いますが、常日頃、実感していることがあります。
 それは、創価学会にあって、広範な民衆がじかに日蓮大聖人の「御本仏の言葉」に触れているという事実が、いかに重いかということです。私たちにとって当たり前のことですが、これほど偉大な宗教革命はないのではないでしょうか。
 池田 御書に「SB364E」と仰せです。また、「SB365E」とも明言されている。
 仏が悟っただけでは、「法」は、まだ民衆から遠い。否、無に等しい。仏が法を「説く」ことによって、初めて法は民衆を苦悩の闇から解放する光として輝く。
 ゆえに「SB366E」と仰せです。
 弘教は、人・法ともに輝いていく尊い作業です。
 仏は不惜身命で民衆を救う言葉を発し、仏弟子たちもまた死身弘法の決心で経典を結集したのです。それが仏の言葉であり、経典の文字です。仏の不惜身命の金文字を集め編纂したのが経典です。
 森中 経典は師弟共戦の結晶ですね。
 池田 経典の冒頭にある「如是我聞(是の如きを我れ聞きき)」とは、「我が人生を変えた師の言葉を確かに聞きました」という仏弟子の感動の言葉です。そして、時を超え空間を超えて、この法を万人に伝えたいという師弟の願いを込めて、文字の経典が残されたのです。
 斎藤 「如是」の言葉に、「そうだ、その通りだ」という仏弟子たちの心底からの「うなずき」を感じます。
 森中 文字を軽視して、文字以外に悟りが伝わっているなどと考えるのは、人・法どちらも軽視している姿というしかありません。
 その意味で、日顕宗の神秘的な相伝主義は、大聖人が「SB367E」と仰せの通り、まさに「天魔の部類・外道の弟子」(同)と断じることができます。
2  池田 『御書全集』の発刊も、戸田先生の深き発願がなければ、永遠に不可能な事業だったでしょう。日蓮大聖人が難を忍ばれ民衆の救済のために認められた御著作を、余すところなく正しく伝えていこうという誓願がなければ、とうてい刊行できるものではなかった。
 戸田先生は、『御書全集』の「発刊の辞」に「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである」と綴られている。
 この一念があればこそ、不滅の聖典ができあがったのです。
 広宣流布の誓願に立っておられたからこそ、大聖人の法門の一切を全民衆に公開しようとする『御書全集』が完成した。そして五十年の間、広く真剣に民衆に拝されてきたのです。
 諸言語への翻訳も当然、この御書全集が基本です。世界へ広がるべき「一書」です。民衆に限りない勇気を送りゆく原典として、全人類の宿命転換を指南した仏典として、戸田先生の御書刊行は、二十世紀で最高に価値のある出版事業だったと後世に評価されていくでしょう。「全東洋へ、全世界へ」と、民衆に仏法を公開した意義は、あまりにも大きい。
 斎藤 今は、英語、中国語、韓国語、スペイン語等、世界の主要言語に翻訳され、それぞれ全集ないし選集が刊行されています。太陽の光は万人に降り注がれています。だれかが、買い占めたり独占できるものではありません。
 森中 ところが、日顕宗はそんな道理も分からない(笑い)。万人が燦々と陽光を浴びているのに、いまだに、どこか薄暗い洞窟の中で"私だけが秘密の太陽を持っているから、私を仰げ"などと言っている(笑い)。
 池田 本来、寿量品の「如来秘密」とは、爾前経で説かれないゆえに「秘」で、厳然と仏だけが知っているから「密」です。決して隠したり、もったいぶったりすることではない。寿量品は、その「如来」の「秘密」を公開したのです。
 日蓮大聖人の「三大秘法」も、いわば、寿量文底に秘沈されていた「久遠元初の法」を、民衆が直接修行できるように大聖人が公開なさった大法だと拝されるでしょう。
 斎藤 民衆が直接、大聖哲の言葉を学び、自身の境涯を高めていく糧としていく――。「御書根本」の生き方は、そのまま、民衆の境涯革命を確立していく正道であり、人類の壮大なる教育革命の大道であるとも言えます。
 池田 御書には、全人類が求めてやまない、最高の普遍性を持つ「哲学」があります。また、未来を照らす「指標」がある。絶望の人を蘇生させる「希望」がある。人生を豊かにする「智慧」があり、人びとを奮い立たせる「励まし」があり、民衆を救う「慈悲」がある。さらに、悪と戦う「勇気」があり、魔性を破る「利剣」がある。そして、前進をうながす「情熱」、真心を大切にする「誠実」、無明を断ち切る「確信」、勝利の道を開く「将軍学」がある。
 最高の「人間学」「生命学」であり、「人生と生活」の鏡であり、「社会と自然」を見つめる叡智があり、「幸福」を探究し、「平和」を創造する実践が説かれている。
 創価学会は永久に「御書根本」です。御書発刊五十年の節目にあたり、その原点を確認し合い、ますます御書を拝し、語っていく出発の日としていきたい。
3  牧口先生の御書
 斎藤 創価学会教学部の最大の誇りは、三代の会長が「御書根本」の生き方を自ら示してくださったことです。三代の会長が御書の根幹のなんたるかを教えてくださったから、創価学会が大発展したと思います。
 池田 牧口先生が用いられていた御書(霊艮閣版御書)をひもといたことがあります。要文にたくさん線が引かれ、欄外に書き込みが多くあった。
 「開目抄」の「SB368E」の個所に傍線。その上の欄外には「行者とは何ぞや」と書かれて、文字を枠で囲まれていた。
 同じように「SB369E」の個所は一文字ひともじの横に〇をつけられ、欄外に「現罰の有無」と書かれている。「SB370E」の個所には二重線が引かれ、欄外に大きくくっきり「大願」と書かれている。「諸難」「折伏」そして「廣宣流布」「大難来の喜び」等の書き込みも印象に残った。
 森中 牧口先生が、本当にご自身の実践の指標として御書を拝読されていたことが分かります。
 池田 日蓮仏法は"広宣流布宗"です。妙法を弘通していく決意と実践がなければ、御書は虚妄になる。七百年間、御本仏の文字は確かに存在していた。しかし、その文字は広宣流布されることはなかった。日蓮大聖人の御精神をそのままに、御書の心を蘇生させたのは先師・牧口常三郎先生です。
 その意味で、創価学会の出現が日蓮大聖人の仏法を証明したのです。現代において、学会を離れて、日蓮仏法を正しく行ずることもできなければ、大聖人の御精神の真髄に触れることも、絶対にできません。このことは厳粛なる事実として宣言しておきます。
 斎藤 この真実こそ未来永遠に伝えていかなければならないと思います。
 経文に説かれている内容を証明するのは、経文を身で実践した人がいて初めて可能になります。広宣流布に戦う人がいなければ、経文は嘘になる。このことこそ、大聖人が御書のいたるところで仰せられていることです。
 「SB371E」
 「SB372E」
 「SB373E」
 森中 ただ、どうも日本人は、こうした断言を嫌う面があります(笑い)。自分の信念をはっきり言う人は生意気だとか、好きになれない、とか。島国根性とでも言うのでしょうか。
 池田 日蓮大聖人が日本人から誤解されやすいのも、一つには、そうした面があるからでしょう。
 森中 大確信の言葉、凝縮した言葉を嫌い、なにか煩悶した言葉を並べているのが知識人だと思っているみたいですね。

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