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日蓮大聖人・池田大作

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末法の闇を照らす「人間宗」の開幕  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  立宗七百五十年から八百年へ
 斎藤 本年(二〇〇二年)の四月二十八日は立宗七百五十年の佳節を刻みます。創価学会は、世界百八十カ国・地域で慶祝します。
 池田 「仏法西還」「一閻浮提広宣流布」と仰せの如く、世界への広宣流布は、日蓮大聖人の御遺命です。
 それを現実のうえで実践し、実現しているのは、学会しかない。これは、厳粛なる事実です。この姿自体、学会こそが仏意仏勅の正統中の正統教団であることの証です。
 大聖人が、どれほど讃歎してくださっていることか。
 斎藤 五十年前、立宗七百年(一九五二年)の時の学会の世帯数は、まだ一万世帯ほどであったと聞きました。それが、わずか五十年で、これだけ世界に広がりました。この未曾有の発展は、仏教史に燦然と輝きわたる大偉業です。
 この偉業を思うと感動を禁じ得ません。さらに、先生は先日、立宗八百年への指標を語られました。
 「この時までに、どこまで広布を拡大できるか。若き青年部、未来部の皆さま方に、すべてを託したい。よろしく頼みます!」と。
 これには、もっと深い感動を覚えてなりませんでした。
 池田 日蓮大聖人の立宗宣言は、末法万年尽未来際までの民衆救済の大宣言であられた。ですから、いよいよ未来に向かって、全人類を幸福にしていこうとする誓願こそ「立宗の心」です。
 未来への希望と、広宣流布に戦う精神に満ちあふれて立宗の日を迎えてこそ、本当の慶祝になるのではないだろうか。これが、わが同志の姿です。
 立宗宣言は、民衆の幸福、末法の根本的救済を願われての一大誓願の表明です。また、そう捉えないと、大聖人がなぜ諸宗批判を烈火のごとく開始されたのか、その真意が分からなくなる。
 立宗七百年当時の学会の規模は確かに小さかった。しかし、戸田先生は、ただ一人、広宣流布の誓願に立たれていた。
 先生のまなざしは、間違いなく全人類の幸福に向けられていました。一宗一派を弘めて事たれりとするような狭いご境涯ではなかった。私は、この時の戸田先生の宣言が、今も耳朶から離れません。
 「われ日本の柱となろう、日本の国の主君である。日本の国の眼目となろう、国の指導者、師の位なり。われ日本の大船とならん、これ親の位。
 主師親の三徳としての日蓮大聖人様のこの気迫の、百万分の一の気迫をもって、日本民族を救おうではありませんか」(一九五二年=昭和二十七年四月七日、立宗七百年記念春季総会)
 そして、青年には、東洋へ、世界へという、広宣流布の構想を語ってくださった。
 はじめに民衆救済の誓願がある。その大師子吼があっての創価学会です。
 斎藤 本章は、建長五年(一二五三年)四月二十八日になされた大聖人の立宗宣言の意義について、「立宗直前の御思索」「立宗の模様」「諸宗破折の意味」等の観点から語っていただければと思います。
2  立宗直前の御思索
 斎藤 まず、立宗前の御行動の面から追っていきますが、日蓮大聖人が立宗を決意されるにあたって、深い思索と熟慮を重ねられたことは御書にも明確です。
 池田 「開目抄」や「報恩抄」に、その御思索の内容が記されているね。
 斎藤 はい。「開目抄」の御文を拝読します。
 「SB353ESB739E」
 〈通解〉――日本国でこのこと(仏教の諸宗は、人々を悪道に堕とす正法誹謗の教えを説いており、謗法の悪縁が国に満ちていること)を知っている者は、ただ日蓮一人である。
 このことを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠からの難、さらには国主による難が必ずおそってくるであろう。言わなければ、慈悲がないのに等しい。
 このように考えていたが、言うか言わないかの二つについて法華経・涅槃経等に照らして検討してみると、言わないならば、今世には何事もなくても、来世は必ず無間地獄に堕ちる、言うならば、三障四魔が必ず競い起こる、ということがわかった。
 この両者のなかでは、言うほうをとるべきである。それでも、国主による難などが起きた時に退転するくらいなら、最初から思いとどまるべきだと、少しの間思いめぐらしていたところ、宝塔品の六難九易とはまさにこのことであった。
 「我々のような力のない者が須弥山を投げることができたとしても、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って、劫火の中で焼けることはなかったとしても、また、我々のような無知の者がガンジス川の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることができたとしても、たとえ一句一偈であっても末法において法華経を持つことは難しい」と説かれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強き求道心をおこして、断じて退転するまい、と誓願したのである――。
 立宗に当たっての、大聖人の深い御胸中がうかがえる御文です。
3  池田 ここに語られているのは、宇宙に瀰漫する魔との壮絶な戦いです。仏法におけるもっとも本源的な精神闘争とも拝される。
 この戦いを勝ち越えて、はじめて仏法は弘められるのです。釈尊においても、そうであった。言い出せば大難、言わなければ無慈悲――。経典の仏語に照らせば、言い出して人々を救わなければならないのは明らかである。そこで、誓願を立てられたのです。
 一度、語り出したならば、どんな大難が起きても断じて退くまい、と。
 いうなれば、嵐のなかに、たった一艘の船で飛び出していくようなものです。しかし、行かなければならない。今、嵐のなかで難破している目の前の人々を救うために!
 ゆえに、誓願という「大船」が必要なのです。魔性との戦いに打ち勝っていく出発には、誓願があるのです。
 斎藤 大聖人は、法華経宝塔品の「六難九易」を思い起こして、誓願を立てられています。
 池田 釈尊は、どんなに大難があっても、仏の大願を受け継ぎ、実現していくように、菩薩たちに「六難九易」を説きました。
 これは、いわば「大難を覚悟して仏の大願を実現せよ」という釈尊の遺命です。
 いずれにせよ、日蓮大聖人が、決然と妙法を説き始めてくださったからこそ仏法がある。世界中の人々が幸福になる大道が開かれたのです。
 広宣流布を開く根源の一歩が、ここにあります。その大聖人の御心を深く銘記していくために、この御文をさらに詳しく拝していきましょう。
 まず、「SB354E」の「此れ」とは何かを知らなければなりません。
 斎藤 「開目抄」は「教の重」と言われるように、五重の相対を通して、寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが、末法の衆生の成仏の要法であることを明かされています。
 しかし、実際には、大半の人が、この成仏の法である法華経への信を悪縁によって失い、悪道に堕ちてしまうとされています。
 池田 その悪縁とは、御聖訓には「悪魔の身に入りたる」僧侶たちだと喝破されているね。
 斎藤 彼等が巧みに法華経の修行を妨げるので、それにだまされて、皆、権経に堕ち、権経から小乗経に堕ち、外典・外道に堕ちてしまう。それで最後は悪道に堕ちてしまっているのだと、仰せです。
 池田 要するに、善知識であるべき僧侶が逆に悪知識となって、人々の善の生命を破壊しているという逆説的な事態を、厳然と指摘なされている。
 その悪僧たちに惑わされて、多くの人が法華経から退転してしまうという構図です。
 この仏法における根本の転倒を、日本国で、日蓮大聖人ただお一人だけが御存じであられた。ゆえに大聖人は、仏法と民衆を支配する魔性との戦いに、ただお一人、立ち上がられた。
 まさに、「但日蓮一人なり」との仰せには、こうした御心が込められているのではないだろうか。

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