Nichiren・Ikeda
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全民衆を救う誓願の結晶
講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)
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1 斉藤克司教学部長 本年(二〇〇二年)は、創価学会版の『新編日蓮大聖人御書全集』が発刊されてから五十周年の佳節を刻みます。
その意義も込めて、この新年号から、「御書の世界」と題して、池田先生に語っていただくことになりました。
教学部員をはじめ全会員にとって、何よりの喜びです。
御書にしたためられている日蓮大聖人の教えや御事跡をめぐり、幅広く展開していただきたいと思います。何とぞ、よろしくお願いいたします。
池田大作名誉会長 こちらこそ、よろしく。
日蓮大聖人の教義とお人柄については、まだまだ正しく知られていないことが多いと思う。御事跡についても、明確になっていないことが多々ある。
立正安国、一閻浮提広宣流布の御文も、学会によって、初めて正しく実践され、正確に拝することができるようになったといっても過言ではない。その基盤のうえに立って、新時代にふさわしい展開が必要になっている面もあります。
さらに、学問的に見ても、鎌倉時代の歴史研究や御書の文献的研究の面での新しい成果もあるでしょう。
これらを視野に入れながら、ある時は大空から俯瞰するように、ある時は顕微鏡で精査するように、御書の仰せを根本に、学び、考察していきたい。
2 御書は大聖人の激闘の記録
斎藤 まず、「御書」について、総論的にお話をうかがいたいと思います。
池田 御書は「末法の経典」です。
大集経に「闘諍言訟・白法隠没」とあるように、末法は、釈尊の仏法のなかで混乱が極まり、民衆を救う力が失せる時代であるとされています。
また、仏法の混乱とあいまって、社会においても、争いが絶えない時代になるとも説かれている。
要するに、仏法も社会も行き詰まり、このままでは混乱と破局に陥りかねない危機的な時代が末法です。
日蓮大聖人は、まさに御自身が生きる当時の日本こそ、「闘諍言訟・白法隠没」という末法の様相そのものを呈していると捉えられました。
そして、このような時代に生きる人々をどうすれば根本的に救っていけるのか、また、どうすれば時代を変革していけるのかを探究されたのです。それは、現代の時代相にそのまま通じます。
斎藤 探究といっても、単なる机上の作業にとどまるものではないですね。
池田 もちろん、それは全人格的な戦いにならざるをえない。
大聖人の御生涯は末法の民衆救済の闘争の連続であられた。御書には「日蓮一人」という言葉が多く記されていますが、これも、御自身が一切を担って立たれた深き御心の一端が表れていると拝することができます。
また、「末法の初め」という言葉も枚挙に暇がないほど多く見ることができるね。これも、末法という時代の先頭に立って、万年にわたる救済の大法を顕し、弘め始めるという責任感の表れと拝せます。
斎藤 確かに「一人」「初め」という言葉には、末法救済の戦いを始める主体者としての御決意を感じます。
池田 私たちがよく知っている教学上のいろいろな概念も、大聖人の民衆救済の戦いのなかから生まれてきたものだね。
例えば、「文証」「理証」「現証」の三証です。
これについて「SB334E」と仰せです。
この「仏法をこころみる」とは、末法救済の法は何であるべきかを大聖人が検証されて、弘めることであると拝することができる。それを三証のあらゆる次元でなされたということです。
斎藤 「証文(文証)」は経文・文献上の探究、「道理(理証)」は理論上の検討、「現証」は実践的検証です。このすべてを行われたということですね。
池田 つまり、全人格的な思索と行動によって末法救済の法を顕されたのです。
また、いわゆる五綱(教・機・時・国・教法流布の先後)も、大聖人の忍難弘通の戦いのなかから生まれてきました。
五綱について、大聖人は「SB335E」であると言われている。
五綱は、行者すなわち実践者が「用心」つまり、もっとも心すべきことなのだね。だれよりも大聖人御自身がその行者として心労を尽くされたのです。
大聖人は、あらゆる角度から「心を用いて」末法の人々を救う仏法を弘めようとされた。この五綱として整理された規範もその一つです。
要するに大聖人の御生涯の激闘の記録が御書です。
末法の人類の救済のために大難を忍ばれ、大法を残してくださった。その御心と行動と指南を尽くされた結晶が御書なのです
それゆえに御書は「末法の経典」と拝すべきなのです。
3 日蓮仏法の人間主義
斎藤 「末法の経典」である「御書」は、「諸経の王」といわれる「法華経」と切り離すことのできない関係にありますね。
池田 そう。経文という客観性、普遍性の次元を尊重されたからです。また、大聖人は末法を救う法を法華経に求められた。そして、その答えを見いだされた。
その答えとは、法華経で「万人が成仏できる」と説いている点にあります。
しかも、それは遠い未来にいずれ成仏できるというものではない。法華経迹門では、一応、未来世の成仏にとどまっていますが、本門寿量品の所説になると、「今」、「この世界」で、「現実に生きている人間」に成仏の可能性があることを示されています。
社会も宗教も混乱の極みにある末法において、人々を救い、時代を変革していくためには、万人が具える成仏の可能性を開く教え以外にない。つまり、人間の偉大な可能性を開発する以外に、末法の救済はない。
人間が境涯を広げる以外に、本質的な解決はないのです。
法華経の救済観を委細に求めると、そういう根本的な「人間主義」ともいうべきものを見ることができる。
大聖人は、末法という時代の本質を鋭く感じ取られ、法華経の人間主義を展開されたのです。
斎藤 人間から出発するしかないという点と、その人間の生命に偉大な可能性を発見した点において、人間主義と名づけるわけですね。
人間主義というと、「理性的存在」とか「神の似姿」といった人間観を根拠にした西洋の人間主義を思い浮かべる人が多いと思います。このような西洋的な人間主義と仏法の人間主義の違いについては、どう考えたらよいでしょうか。
池田 仏法の人間主義は、理性とか神の似姿というような固定的な根拠に基づく人間主義ではなく、「仏性」の開発による人間革命の可能性を根拠にしたものです。
その「仏性」というのも、人間の心が妙法に開かれていることをいいます。したがって、人間だけに何か特別なものが具わっているというものではありません。
斎藤 人間だけに何か特別なものが具わっているから人間が尊いという"固定的な人間主義"は、ともすると「人間だけが尊い」といって、他の生命をおろそかにする人間中心主義に陥る恐れがあります。
池田 あらゆる生命は妙法の当体であり、生命としては平等です。その意味では、あらゆる生命は妙法に開かれており、仏性が具わっていると言える。それを表現したのが、十界のいかなる生命も仏界を具えているという十界互具の法理です。
そのなかで人間は、仏界の力を人格と生活のうえに現すことができる。そのために重要になるのが「心」です。
したがって、御書では仏道修行における「心」の大切さが大いに強調されています。「信」「勇気」などの仏界を開く心の力と働きを教えられるとともに、反対に「不信」「臆病」などの仏界を閉ざす心の働きを戒める。
心についての教えが御書であるといっても過言ではありません。