Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「祈祷抄」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  祈りは願業成就の原動力
 されば法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にえるがごとし、める水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし
 したがって、法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に応ずるように、影が身体に添うように、澄んだ水に月が映るように、方諸(鏡の一種)が水を招くように、磁石が鉄を吸うように、琥珀が塵を取るように、明らかな鏡が物の色を浮かべるように必ず叶うのである。
2  法華経の行者の祈りは、必ず叶うことを断言された御文です。
 引かれた譬えが、いずれも自然の道理、事実の姿であることに、日蓮大聖人の強い御確信をみる思いがします。
 音には響きが応ずるように、体に影が従うように、法華経の行者の祈りのあるところ、そこに結果が出ないわけはない。祈りに応じて、自己の生命の色心にわたる回転が起こり、また依報もそれに呼応して動くとの仰せであります。
 ここで「法華経の行者の祈る祈」と述べられていることに注意をはらわなければなりません。法華経の行者すなわち実践者とは、別しては末法御本仏日蓮大聖人、総じては日蓮大聖人の教えのままに信心修行に励み、広宣流布に遁進する私どものことになるのは言うまでもありません。法華経の行者の祈りは叶う。しかし、爾前権教の人の祈りは、根本的に叶わない。
 「諌暁八幡抄」には、次のように述べられています。
 「此の理をわきまへざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可からず
 また「撰時抄」には「此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか」と述べられています。
 つまり、魔の通力等によって一分のしるしがあったとしても、天地の知るほどの祈りとはならないし、更には、より深い苦しみの世界へ入っていってしまうということであります。すなわち、大宇宙にも響く己心の大回転とはならない。
 それに対して、法華経の行者の祈りは、天地に響きわたって、祈ったとおりの方向へと入っていくことができるのです。
 祈りとは、決して観念ではない。科学万能の物の見方にとらわれた現代人の目からすれば、目に見えない生命の世界は観念の産物にすぎないと考えるかもしれません。しかし、もし物質的な観点だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、人と物との関係の大部分は、偶然の混沌の中に埋没してしまうでしょう。
 仏法の透徹した英知は、その混沌の奥に生命の法を見いだし、事象を内より支え、動かしていく力をとらえているのであります。
 「命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」と仰せのように、瞬間瞬間に如々として来って内より自身を支え、本源的な方向性を与えていくものこそが、最も問題とされなければならないわけであります。祈りとは、この本源的な世界における唯一の対決でありましょう。
 したがって、祈りとは、正しい実践、粘り強い行動を貫くための源泉であります。祈りのない行動ほどもろいものはない。それは、ある時は順調で、意気盛んにみえるかもしれません。しかし、ひとたび逆境に直面するや、枯れ木のように、もろくも挫折してしまうでありましょう。なぜなら、そこには、我が胸中を制覇するという一点が欠けているがゆえに、現実社会の浮き沈みの中で、木の葉のように翻弄されてしまうからであります。
 人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは、決してありません。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。そうした、様々な曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻んでいくものであります。その過程にあって、勝って倣らず、負けてなお挫けぬ、強靭な発条として働くのが、祈りなのであります。
 ゆえに、宗教的な祈りのある人ほど強いものはない。まして我々の祈りは、人生への諦観を助長するような弱さの発露でもなければ、ある種の宗教的ドグマをもって独り善しとする、狂信的な祈りでもありません。
 外にあって人間を支配する神仏の加護を祈るのではなく、我が強盛なる祈りに込めた一念が、信力、行力となってあらわれ、それと相呼応して仏力、法力が作動するのであります。主体はあくまで人間であります。
3  ”祈る”ことから一切が出発
 祈りとは、ある意味で人間の心に変化をもたらすものであります。目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではありません。また一つの地域の変革は、決してその地域のみにとどまってはいない。一波が万波を呼ぶように、必ず他の地域に変革の波動を及ぼしていくのであります。
 そうした展転の原点となる最初の一撃は、一人の人間の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。
 仏法は道理である、と言われることの深意もここにあるといってよいでしょう。譬えの中の「音」「体」「すめる水」等は祈りの姿であり、「響」「影」「水にうつる月」等は、祈りの叶っていく自然な様相をあらわしていると拝することもできます。それらの譬えが自然の理法であるように、法華経の行者の祈りは、生命の世界の必然の法として、道理として、必ず叶っていくのであります。
 こうした祈りは、傲慢や慢心とは、およそ縁遠いものでありましょう。端座唱題の凛然たる姿には、浅薄な自己の智慧、わずかな経験への執着を乗り越えて、仏の智慧によって見いだされた生命の法、自然、宇宙の根源のリズムに冥合しようとの、謙虚な姿勢が脈打っているものであります。卑屈にもならず、一切の活動を一念へと凝縮し、生命の充電を受けつつ、無限の飛躍を期している。それは人間生命の、最も健康にして充溢した姿なのであります。
 ともかくも、私どもは、生活の、人生のすべての問題を御本尊に祈りきって、取り組んでいこうではありませんか。
 この、すべてを祈り、勝ち取ってきた戦いこそが、個人の人間革命をもたらし、今日の大河の日蓮正宗そして創価学会を築いてきた原動力なのであります。
 ゆえに、祈ることが大事であり、そこから一切が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。事のうえにおいて、祈りを失って、我が生命を回転させなければ、どのようなうまい話をし、高尚な理論を展開しても、それはすべて理であり、夢であり、幻となってしまう。信心といい、学会精神といい、すべて現実を、強く、深く祈ることから始まるといってよいのであります。
 仏法の祈りは、単に祈っていればいいというものではない。満々たる生命力をはらんだ矢が射られていくごとく、行動、実践をはらんでいるのであります。したがって、行動なき祈りは観念であり、祈りなき行動は空転なのであります。
 ゆえに、偉大なる祈りは、偉大なる責任感から起こると申し上げたい。仕事に対し、生活に対し、人生に対して無責任な姿勢、どうでもいいという姿勢からは、決して祈りは起こってきません。
 自己のかかわる一切に責任を持ち、真剣に取り組んでいる人こそ祈りを持つものであります。
 世の中が厳しいだけに、生活の一つ一つに強い祈りを持って取り組んでいただきたいことを重ねて申し上げ、私の講義とさせていただきます。

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