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日蓮大聖人・池田大作

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「日女御前御返事」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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1  尊き同志を信頼しあおう
 法華経をば経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじな品品ふるまひ振舞によつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり
 法華経を経文通りに持つ人々であっても法華経の行者を、あるいは貪瞋癡等の煩悩により、あるいは世間の事により、あるいは様々な振る舞いがよくないといって憎む人がある。このような人はせっかく法華経を信じていても、功徳はなく、かえって罰を受けるのである。
2  この御文の意味するところは、別しては当然、日蓮大聖人のお立場を述べられております。しかし総じては、末法の慈折広布に邁進する日蓮大聖人門下にあてはまる御文と自覚して拝せるのであります。
 法華経とは、末法の法華経、すなわち御本尊であります。「法華経をば経のごとく持つ人人も」とは、御本尊を受持している人々のすべてに共通いたします。たとえ、そういう「法華経をば経のごとく持つ人人も」、それは形のうえのみで、実際は、もし「法華経の行者」――別しては、御本仏日蓮大聖人お一人であられる。また総じては、日蓮大聖人の門下、すなわち正法を持って広宣流布に向かって、日夜、真剣に活動している人――を憎んだり、謗る者には、功徳がないばかりか、かえって罰を受けてしまうという御金言なのであります。
 それでは、どういう形をとって誹謗中傷が行われるか、それを大聖人は、一つは謗る人の「貪瞋癡」によって、二つには「世間の事」に事寄せて、三つには仏法実践者の「しなじなのふるまい」をとおしてである、と仰せなのであります。
 「貪瞋癡」によって憎むというのは、その人の貪り、瞋り、癡か――すなわち、その人の心の魔性の発露ともいえるであろう煩悩が原因で、法華経の行者を憎んでしまうことであります。
 この貪り、瞋り、癡かというものほど、やっかいなものはない。人間のもつ悲しむべき性であります。しかし、怨嫉、怨念、憎しみというものに振り回されるか、信心という仏界から自分の生命を律していけるか、ここに絶えざる人間革命の戦いがあることを知ってください。
 当然、荒凡夫の未熟さのゆえに、様々なことがあるかもしれない。私達の側でそうさせない努力も、当然必要であります。しかし、故意に尊き”仏子”を傷つけていくことは、実は、自らの生命をも傷つけていく醜い行為であり、自らを奈落の底に追いやっていくことは疑いない。
3  難は世間の事象に事寄せて起こる
 また「世間の事」によって憎むというのは、仏法の厳然たる教義によらず、世間的なことに事寄せて批判したり、憎しみを抱く場合であります。例えば、地位とか、立場とか、財産とか、いわゆる世間的な姿のうえから批判することであります。地位や権威をカサにきて驕りたかぶり、法華経の行者を誹謗することも含まれてくるわけであります。
 更に「しなじなのふるまい」によって憎むというのは、その人の振る舞いや言動、すなわち、表面に現れた姿、形で批判する場合であります。
 今までも難というものは、必ず世間のこと、生活的な事象に事寄せて起きてきました。大聖人の時代もそうでした。今また同じであるといえます。
 これらは、いずれも、人間が最も陥りやすい通弊でもあります。それだけに、自らの仏道修行の鑑としていくべき重要な戒めとも拝すべきなのであります。
 とともに、世間的なことに事寄せたり、表面の振る舞いや言動によって人々は見ていくのでありますから、自身の社会における姿や地域における行動も”さすが”と言われる人になっていくことが大切です。しかし、それでもなおかつ経文、御書に照らし、必ず非難中傷は内外ともにあると考えなくてはならない。
 ともかく日蓮大聖人は、結果的に法華経の行者を憎むということは、いかに法華経を経のごとく持っているかにみえても、そのような姿には信心の功徳はない、かえって罰を受けてしまうのである、と断言されているのであります。
 日蓮大聖人の偉大な仏法を自らも行じ、この末法に弘通している人を誹謗すれば、必ずこうなるとの厳しき御聖訓なのであります。
 同志というものは、互いに信頼し、尊敬しあわなければならない。自他彼此の心で、互いに反目したり、怨嫉したり、憎しみあったりすれば、もはや仏法の命脈は、そこには息づいていないことになります。むしろ、生命の魔性に汚染された世界をつくりあげてしまうのであります。
 ともあれ、亀裂化し、断絶化した社会にあって、ひたすら御本尊を受持、唱題まいらせて、互いに「信」で結び合った教団は、この世で比類なきものと信じます。
 「佐渡御書」に「悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし」と仰せですが、この御金言の鉄則を銘記していきたいと思います。ゆえに内部から破壊していこうとする行為は、最大の仏敵となる所業なのであります。
 特に、これからの時代は、日本的にも、世界的にも、内部充実の時代となるであろうと思われます。世間にも「艱難にあいて、はじめて親友を知る」とのことわざもあります。いわんや”異体同心”が、仏法の真髄であります。ゆえに、真実に、広宣流布に苦難を共有しながら活動していく中に、何ものにも代えがたい強靭な絆は築かれるに違いありません。
 一人一人が己の信心を確立しつつ、仲良くスクラムを組んで、地涌の菩薩の審属として誉れの道を、ともどもに進んでまいろうではありませんか。

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