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日蓮大聖人・池田大作

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「種種御振舞御書」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  一切を包む御本仏の大慈悲
 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり
 釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると人を良くさせるものは味方よりも強敵が人をよく大成させるのである。
2  私は、この御金言を拝するたびに、御本仏の宏遠無辺なる大境界に、驚嘆の念を新たにいたします。善知識とは有徳の友人であり、人を仏道へと導き入れる人を意味しております。
 先に「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」と仰せのように、釈尊にとっての提婆達多と同様、大聖人は、自らを迫害し、酷寒の佐渡へと流罪せしめた張本人である北条時宗や平左衛門尉を、御自身の善知識であると仰せなのであります。
 普通ならば、天に怨瑳の声を放ち、悲涙をもって地をぬらし、あるいは悲嘆と諦めの暗い日々を送っているのが当然でありましょう。
 しかし、大聖人は、その次下に「平左衛門尉・守殿ましまさずんばいかでか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」とまで言われているのであります。
 その御境界たるや、まさしく山をも抜き、海をも容るる大慈悲と拝する以外にありません。私にはこの御文を拝するたびに、紅涙滴る思いがいたすのであります。
 私達はこの一節をとおし、難に遭遇した時の、仏法者たる者の姿勢の極底を学びとっていきたいと思います。
 もちろん、大聖人の御一生にとうてい及ぶものではありませんが、凡夫である私達の人生においても、良い時もあれば悪い時もあるのが当然であります。むしろ、今日のような濁世、激動の時代にあっては、順境の時のほうが少ないかもしれません。
 また、広布遠征の途上にあっても、今後とも、様々な障魔が競い起こってくることは、御金言に照らして必定であります。
 その際、我ら大聖人門下は、大きく一切を包みこみながら苦難を避けずに、むしろ反省すべきことは潔く反省をしながら、人間革命の絶好のチャンスととらえていくべきであると申し上げたい。
 私は、佐渡において大聖人が「喜悦はかりなし」と、宇宙大の大きさで我が生命の躍動を感じられた御心境が胸に突き刺さってきます。
 一般世間でも「艱難汝を玉にす」と言われております。まして信心の世界において、困難を乗り越えずして、一流の人間、真金の人に成長できるわけがありません。
 「くろがねは炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」とも仰せであります。
 安逸の中には本格派の人材は、決して育たない。私はこのことを、特に未来性豊かな青年部諸君に、強く要望しておきたい。
3  苦難もまた人間革命の因
 学会の歴史にあっても、過去に、難を前にして敗残の姿をさらしていった残念な人々を、何人か知っております。
 私は、それらの実例をみて、常々痛感していることですが、それらの人々は、外から襲ってくる難に敗れたというよりも、むしろ己心との戦いにおいて挫折したといったほうが、真実に近いように思えてならないのであります。
 大聖人御在世当時に、おいても同様であったでありましょう。その弱い自分に打ち勝つことが、信仰の第一義なのであります。
 今は亡き吉川英治氏がその書の中で「波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」(『宮本武蔵』中央公論社)と言った言葉があります。
 誠に波騒は世の常であります。そこにたくみに生きる小さい心の人間もいます。しかし、人間の本当の偉大さ、尊さは何か。自らの信ずる目的のために波騒を包みつつ、なおかつ悠然と師子王の歩みをなす人こそ、最も尊い人であります。
 我らの人生は、波浪に翻弄されていくような、はかないものではならない。また、波間を巧妙に泳いでいくような、世故にたけた名聞の道であってはならない。しょせん、どう過ごそうとも、一生は一生であります。
 ゆえに私達は、このかけがえのない一生を「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」の御金言のままに、決定の日々で我が人生の歴史書をつづっていきたいものであります。
 たしかに、釈尊にとっては提婆達多が、日蓮大聖人にあっては平左衛門尉が、第一の善知識でありました。
 しかし重要なことは、難に直面した時、それを善知識とするか、悪知識とするかは、我が一念にあるということであります。御本仏の心を推察するのは恐れ多いことですが、平左衛門尉を善知識と仰せられたのは、いつに御本仏日蓮大聖人の比類なき御境界、大慈悲であられました。
 総じて私どもにおいても、一念のいかんで悪知識も逆境も、ことごとく自身の成長の発条としていくことができるのであります。また、罪障消滅につながっていくのであります。苦難があるたびに、真実の信仰の核は、いやましてその力を凝縮させながら、新しい時代を切り開いていくに違いありません。
 その意味からも「今の世間を見るに人をよくなすものは……」うんぬんの仰せも、誠に道理であると拝することができます。味方同士のなれあいの平穏にひたっていては、人間であれ組織であれ、堕落するばかりであります。苦難につぐ苦難の峻険を踏破しぬいてこそ、嵐に揺るがぬ大樹のごとき境涯が開かれゆくのであります。
 「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せのように、苦難こそ真実の平安であり、波乱万丈のなかに底光りを増していくものこそ、真金の人生であるといってよい。
 長途の旅を苦難と戦い、耐え抜いてきた人の顔には、つややかな輝きがあります。一回りも二回りも境涯を開き、その目や表情は、不屈の光沢を放ち、私達の内側に力強い何ものかを生じさせてくれるものです。
 どうか、皆さん方の一生もかくあれかしと祈りつつ、講義を終わらせていただきます。

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