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日蓮大聖人・池田大作

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「報恩抄」 仏法の要諦は”一人立つ精神”

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり
 このことは、いまだ弘まらず、一閻浮提の内に、釈迦仏の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮一人が、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱えたのである。
2  我々の三世にわたる根本の師匠は、日蓮大聖人であります。釈尊滅後二千余年の間、どんなに唱えたくとも、誰一人、口にすることのできなかった南無妙法蓮華経の題目を、日蓮大聖人は、押し寄せるであろう迫害、中傷の嵐を覚悟のうえで、命を賭して説いてくださった。我々は、この深恩を夢にも忘れることがあってはならないと思うのであります。
 朝晩の勤行唱題は、我々にとってごく普通のことのように生活のリズムとなっておりますが、実はこのことがどれほど甚深の意義を秘めていることか――。二千年余の長きにわたって、人々が知ると知らざるとにかかわらず、生命の奥底で求めに求めてきた一点こそ南無妙法蓮華経だったのであります。
 生死の問題のように人間の幸、不幸を決める決定的な分岐点に立った時、この世の地位、財産、名誉等は、何ら役に立ちません。御書に「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」と言われているように、業苦の淵を垣間みた生命は、ひたすら南無妙法蓮華経を求め抜くのであります。
 しかも御本尊に縁することのなかった生命は、求めて得られず、何に「南無」してよいのか、すなわち、何をよりどとろにしてよいのか分からず、苦悩の海で、あてどのない航海を続けていかざるをえません。ゆえに、大聖人は「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」と仰せなのであります。「癩人」とは、この世の不幸の象徴でありましょう。「天台の座主」つまり世の中でいかに位人臣を極めようとも、南無妙法蓮華経と唱えることのできる大福運に比べればいかほどのこともない。
 したがって自分が、どんな恵まれない境涯にあろうとも、今、現実に題目を唱えることができるといことは、確たる仏法の正道なのであります。その現在の一瞬に、苦楽一如、善悪一如の大生命力を涌現させるためにこそ、大聖人は御本尊をしたためられたのであります。報恩感謝、これにすぎるものはありません。このことを、朝晩の唱題の際、深くかみしめることのできる日々でありたい。
3  次に「日蓮一人」ということについて触れておきたい。
 これは「諸法実相抄」に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが」うんぬんとあるのと同様、本宗、学会永遠の指針である。”一人立つ精神””一人が原点”に通ずると拝せましょう。
 尽未来際を潤す清流が、大聖人御一人に源を発するように、今や大河のごとく水かさを増しつつある私達の運動も、もとはといえば、老齢の身を極寒の獄中に殉ぜられた初代会長牧口常三郎先生、その遺志を継いで国破れた山河に一人立たれた二代会長戸田城聖先生の戦いに発しているのであります。
 広くこれを論ずれば、戦野がいかに多角化、重層化しようとも、その運動がどれだけ進展し価値を生んだかを測る尺度は、それをとおして皆さん方一人一人がどれだけ境涯を開き、人間革命の実証を示すことができたかに尽きるのであります。その一点を抜きにした運動というものは、どんなに華々しかろうと、広宣流布の名に値しない空転であるといっても過言ではない。

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