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日蓮大聖人・池田大作

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「撰時抄」 我が振る舞いこそ信心の結晶

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う
 法華経方便品の「いわゆる諸法の是の如き相」等というのはいかなる意味か。十如是の始めの「相かくの如し」というのが第一の大事であるから、仏は世に出現されるのである。
2  「撰時抄」とは「時を撰ぶ御抄」という意味です。末法という時を凝視し、いかなる法を弘めるべきかを検討され、三大秘法の妙法こそ、末法の人々を救済する法であることを宣言された重書であります。
 今回学ぶ個所は「余に三度のかうみよう高名あり」と、大聖人の三度にわたる予言がことごとく的中し、真実の時を知るのは仏であることを、確信を込めて断言されている段の後半にあたります。
 方便品の十如実相の文が「如是相」より始まることから「相」ということの重要性を説かれているところであります。
 「相」とは、一言にして言えば「如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり」と示されているように、事実のうえに顕現された姿、振る舞いを言うのであります。
 それでは、なぜ「十如是の始の相如是が第一の大事」であるかといえば、その点を論ずることが、天台の理の一念三千の法門と、日蓮大聖人の事の仏法との、根本的な相違を浮き彫りにするからであります。
 天台大師は、どちらかというと心性を重んじ、己心を観じて十法界を明察する観念観法の修行を軸に、法理を展開しました。それに対し日蓮大聖人は、徹底して事実のうえの振る舞いを重視されたのであります。
 「百六箇抄」においても「涌出品より已後・我等は色法の成仏なり」との御文にみられるように、大聖人はしばしば、生命の色法の側面を、本門、随縁真如の姿としてとらえておられます。心法の側面は、まだ迹門、不変真如の理門にとどまっているわけであります。
 思うに、日蓮大聖人の仏法を実践するにあたって、何が要諦となってくるのでありましょうか。
 それは、悟りとか決意、慈愛といったものが、心の領域にのみ踏みとどまっていてはならないということであります。
 心中に凝縮された一念は、即地涌の実践の場へと展転し、我が身に、我が生活、我が人生に、いかなる事の振る舞いとなってあらわれたかという現実性、具体性こそ、日蓮門下にとって大事中の大事なのであります。
 しかも大聖人はこのことを「相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う」と仰せられている。すなわち、現実に仏が出現され、人間としての事実のうえに仏法を会得し、顕現していく方途を明かされたという歴史的事実こそ重要なのであります。
 たしかに大聖人は、久遠元初の自受用報身如来であられる。しかし我々が、その偉大な存在をまぎれもない事実として覚知することができたのは、七百年前に大聖人が御出現になったからこそであります。
3  仏法は、キリスト教の”神”のように、遠き夢のかなたにあるのでもなければ、山中深くひっそりと説かれるものでもありません。現実に生きる人間の中にのみ息づくのであり、様々な生活の葛藤の中に豁然と開けゆく生命蘇生の泉なのであります。ゆえに大聖人は、民衆が雲集し、苦楽、愛憎の織りなす現実の真っただ中に飛び込んでいかれたのであります。
 「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり」の仰せがあります。
 大聖人は御本仏でありますから、本来は、釈尊をはじめとする仏菩薩、あるいは人師、論師の証明など必要としないのであります。にもかかわらず、自らの御出生を「日蓮末法に出でずば……」と、歴史の流れの中に意義づけておられる。私は、この御金言の中に、歴史性と現実性とを特に重視する事の仏法の骨髄を、垣間見る思いがしてならないのであります。まさしく「相如是が第一の大事」であります。

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