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日蓮大聖人・池田大作

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「開目抄」 御本仏の御境界を拝す

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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1  開目とは盲目を開く義
 「開目抄」は、日蓮大聖人が流罪の佐渡の地において文永九年(一二七二年)二月にしたためられ、日蓮大聖人を勇敢にお護り申し上げた四条金吾という信者を代表として門下一同にお与えくださった御書である。
 本抄は、日蓮大聖人こそが、末法の御本仏すなわち「人本尊」であられるという御内証を明確に宣言された重要な御書である。その翌年、文永十年(一二七三年)には、同じく佐渡の国において法本尊開顕の書、すなわち「観心本尊抄」を著されていることに末法永遠にわたる人法一箇の大御本尊御建立への理論的基盤が整ったといえる。
 本抄の題号の「開目抄」とは、一切衆生の盲目を開く義である。すなわち日蓮大聖人こそが末法下種の三徳を具備せられた御本仏であられ、末法の一切衆生、全人類を救済あそばされる仏であられることを知らない迷妄を聞かれる意である。三徳とは、仏が衆生を守り、導き、慈愛する勝れた絶対の威徳のことである。これを、主師親の三徳というのである。
 御書を持読する場合「一往・再往」という立て方がある。更に「総・別」「文上・文底」「三重秘伝」「四重興廃」「五重相対」という大変深い次元のとらえ方がある。
 こうした規範、原理を基に、仏教のあらゆる法門を理論的系統的に明確に把握し、その高低、浅深を分析していけば、その最高峰は、南無妙法蓮華経の大御本尊という一大秘法になってくる。その一大秘法を開けば三大秘法となり、それを更に聞いていけば八万法蔵の仏教全体へと広がっていくのである。
 南無妙法蓮華経は、いわば、全仏法の根本、そして成仏の根本の法であり、この妙法によってのみ、一切の仏は成仏したのである。
 したがって”妙法”は一切の法の親であり、妙法という親をないがしろにして、子供である個々の教えを信ずるのは、道理に反するのである。世界の宗教は、南無妙法蓮華経という親からみれば、みんな子供の宗教である。
 ともあれ、「開目抄」は、末法御本仏としての日蓮大聖人の甚深の境地を明かされた重書中の重書であり、どの一節を拝しても、あふれんばかりの大情熱、大確信に圧倒される思いである。ここでは特に二つの御文をとりあげ、大聖人の仏法を信奉する者として、感ずるところを記したい。
2  実践を重んじられた”事の仏法”
 されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
 されば、日蓮の法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分も及ぶことはないけれども、難を忍び慈悲の勝れている点では、像法の天台・伝教に対して恐れ多いことである。
3  「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども」とは、一往の義においては、日蓮大聖人は、法華経の理論的な理解においては、天台、伝教には及ばないとの仰せである。これは、謙遜という東洋の伝統的な礼儀の立場をおとりになられたと拝せる。東洋、特に中国や日本の伝統は、古来、先師や先輩に対して、謙譲の意を示し、自身を一歩下げて、先師、先輩を尊敬するという姿勢をとる。そこで大聖人は、この御書においても、その伝統、慣習をふまえられたといってよい。
 一往は、天台、伝教は、ともに法華経を最も正しくとらえた像法時代の正師である。しかし、時代が移り、末法に入って、日蓮大聖人の法華経の色読の深さ、広さ、偉大さ、厳格さは、天台、伝教にはるかに勝れておられる。それは、末法万年尽未来際の全衆生を救済せんとする大慈大悲の如説修行、死身弘法の実践行動であられたからといってよい。
 およそ、実践のない仏法はありえないが、なかんずく大聖人の仏法はどこまでも信心が根本であり、実践が絶対に大切なのである。大聖人の立場自体、あくまで実践を重んじられた”事の仏法”なのであり、したがって、日蓮大聖人の教えどおり実践しぬいていくことが、成仏への直道として求められるのである。

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