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「生死一大事血脈抄」講義  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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1  信心の骨髄明かす一書
 本抄は、恩師戸田先生が何度も講義してくださった懐かしい御書であります。
 戸田先生は「この生死一大事血脈抄を読むのは、とても面倒です。スラスラ読んで分かったとも思うが、また分からなくなってくる。境涯が深まるたびに、読み方が深まってくる」という意味のことを、何回となく語っておられた。
 また戸田先生は「日蓮門下にとって信心の骨髄の御書であり、これを離れて広宣流布もなければ信心の核心、仏法の骨髄に触れることはできない」とまで言われていました。そして、また「地涌の菩薩の実践の明鏡ともいうべき書である」とも述べられておりました。
 私も、文証、理証、現証のうえから、それを確信しております。また、私自身、種々の会合で、再三再四、講義をし、思索を重ねてもまいりました。そのたびごとに一節一節の凝縮された内容に驚きもし、感激を新たにしてまいりました。誠に不思議な一書としか言いようがありません。
 今回は、「教学の年」の意義にもちなんで、本抄をめぐるこれまでの思索の集大成として発表しておきます。これもひとえに未来の広宣流布への展望のうえから、本抄によって仏法の原点を深く掘り下げ、信心の血脈という源流を確認しておきたいと願うからであります。
 本抄は比較的短い御書でありますが、実は大変深い内容を含んでおります。「生死一大事の血脈」という仏法の究極の課題を直ちに取り上げておられるゆえであります。この課題こそ、釈尊をはじめ仏法三千年の歴史に登場した実践の人々が、叡智の限りを尽くし、情熱のすべてを注いで考察し、体得しようと取り組んだ一点であります。
 八万四千の法蔵も、また大地微塵ほどの論釈も、そのことごとくが、この「生死」という一つのモチーフをめぐって展開されたものといえます。
 最蓮房は、当時の仏法哲理の最高峰に位置してきた天台の学僧であったゆえ、鋭くこの哲学的課題の原点に迫り、日蓮大聖人の教えを仰いだのであります。本抄は、日蓮大聖人がこのテーマに対して、末法御本仏としての観心の立場から結論を与えられ、更に一切衆生の成仏のための実践論を明示された御書です。
 「諸法実相抄」が、広く諸法と実相、十界と妙法、凡夫と仏という総体的課題を論じ「日蓮と同意」で妙法流布に立ちゆく地涌の菩薩の使命を教えられたのに対し、本抄は、まさしく成仏、不成仏という仏道修行の根本目的を論じられ、その成仏への血脈がいかなる実践の中に流れ通うかを明かされた御書でもあります。
 また「諸法実相抄」が、人本尊開顕の「開目抄」と、法本尊開顕の「観心本尊抄」の両書の内容を含んだ御著作であることは、その講義の中で触れておきましたが、本抄は、御本仏日蓮大聖人御証得の法門自体を明かされたともいえる重書であります。まさしく”境涯の書”と言うべきでありましょう。
 日蓮大聖人御内証の法門をしたためられた書であるゆえに、何回も拝読し、我が生命に刻んでいっていただきたいことを、まず最初に申し上げておきたいのであります。
2  本抄は、文永九年二月十一日、佐渡・塚原においでしたためられた書であります。対告衆は「諸法実相抄」と同じく、最蓮房日浄です。この人については「諸法実相抄」講義に述べたとおりですので、詳細は略させていただきます。
 もとよりこれは御消息文であり、題号の「生死一大事血脈抄」は後世に付されたものでありますが、冒頭から「夫れ生死一大事血脈とは……」と説き起こされておりますゆえに、まず、この「生死一大事血脈」ということから述べていきたいと思います。
 「生死」とは、生まれでは死に、死んではまた生まれてくる、すなわち生死を繰り返すこの生命を言います。
 「一大事」とは、最も根本の肝要という意味であります。「一」とは、たくさんある中の一つということではなく、これ一つ以外にないという意味の”一”であります。その唯一無二の根本の大事ということが「一大事」なのです。
 したがって「生死一大事」とは、生命における最重要の大事ということであり、生命の極底の法を指すのであります。
 「血脈」とは、師匠から弟子へ法が伝えられることを、人間の身体の中で血脈が絶えることなく連なっていることに譬えて言われたものであります。
 仏法における師弟の関係は、師としての仏が覚知した生命の極理を、そのまま弟子の生命に伝えることにあります。ゆえに、師が自らの悟った法を、そのまま弟子に伝えていくことを「血脈」と称するのであります。
 したがって「生死一大事血脈」ということを一言に要約して述べれば、生命の究極の法がいかにして仏から衆生に伝えられ、生死を繰り返す衆生の生命に顕現されていくか、ということであります。これこそ仏法の最も肝要であり、単なる観念ではどうしょうもない、実践の哲理、感応の哲理たるゆえんがここにあるわけであります。
3  「生」は生命の顕在化、「死」は潜在化
 以上、概説しましたが「生死」「一大事」ということについて、少々私の考えるところを述べてみたい。なお血脈については、本文に入って詳細に論じてまいります。
 まず「生死」とは、生と死ということであり、大きく二つの意味があります。一つは、生老病死の四苦を略して「生死」と言い、苦しみをあらわす場合と、いま一つは、永遠の生命観に立って、生まれては死に、死んではまた生まれてくるという、生死を繰り返す生命の当体をあらわす場合とであります。
 ここでの「生死」は、言うまでもなく生命を意味しているのであります。生と死は、生命の変化の姿であり、逆に言えば、生と死にしか生命はあらわれないのであります。
 凡夫の眼には、生命は生で始まり、死で終わるとしか映らない。しかし、仏法の視点は、この限界を打ち破って、生とあらわれ、死として持続している全体を貫く「生命」そのものをとらえたのであります。
 この観点から、仏法では、生命の変化相としての生と死を、どうとらえているのでしょうか。
 法華経寿量品に「若退若出」――もしは退き、もしは出づる、と説かれております(正しくは「生死の、若しは退、若しは出有ること無し」と説かれている)。この「退く」というのが「死」にあたり、「出づる」というのが「生」にあたります。また寿量品では、永遠の生命観から、生命は、退いたり、生じたり、生まれたり、死んだりするものではない、という説き方をしておりますが、日蓮大聖人の「御義口伝」では、更に深く本有の生死、つまり本来もともとの生死であり、退出(退く、出づる)であるととらえるのが、本当の正しい生命観であると説き明かしております。
 ゆえに、生命が顕在化した状態を「生」とし、潜在化した状態を「死」ととらえ、しかも、その生死を無限に持続しているのが、生命そのものなのであります。
 生を顕在化、死を潜在化ととらえる仏法の究極の哲理は、何と、悠久、偉大な生命をみてとっていることでしょうか。
 しかも、その生と死は不二であると説いているのです。生を働かしているものは潜在化した妙なる力であり、また、潜在化した生命は、やがて縁に触れて顕在化し、ダイナミックな生を営み、色彩豊かに個性を発揮していきます。やがて、その生は静かに退き、死へとおもむく。しかし、その潜在化は新しいエネルギーを蓄えつつ、新しい次の生を待つのであります。
 言わば、生は、それまで休息し、蓄えた生命の力の爆発であり、燃焼であり、やがてその生涯の一巻の書を綴り終えて、死におもむく。その、宇宙それ自体に冥伏し、潜在化した生命は、宇宙生命の力をそこに充電させながら、生への飛翔を待つのであります。
 これが、本来の生死であり、この宇宙本然のリズムの根源が、南無妙法蓮華経であります。ところが、その本然のリズムとの波長が合わず、偏向性を帯びた生命は、その生死の繰り返しの中に、主として地獄、餓鬼、畜生界等に偏りつつ、ぎごちない運命をたどっていきます。いわゆる宿業と言われるものが、それであり、重々しい鉄鎖に縛られつつ生まれ、また死んでいくのであります。
 この偏向した生死を、本有の生死へと転換していくものは何か。まさしく、それは、南無妙法蓮華経の一法に帰し、その一法から発していくしかないのであります。

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