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日蓮大聖人・池田大作

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題目を流布し御本尊を建立  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給ふ多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん
 日蓮は末法の世に生まれて、本化上行菩薩が弘めるべき本門の題目すなわち「妙法蓮華経」を、先立ちでほぼ弘め、また作り顕すべき本門の本尊すなわち「本門寿量品の古仏である釈迦仏と迹門の見宝塔品の時に現れた多宝仏、そして涌出品の時に出現した本化地涌の菩薩等」を、まず作り顕したことは、自分としては分に過ぎたことである。このような日蓮をどんなに憎む者でも、日蓮の内証には何人といえども及ぶものではないであろう。
2  末法流布の三大秘法の題目を、ほぼ弘め、同じく三大秘法の御本尊を建立したことを述べられております。それは、法華経の文の上から言えば、本化地涌の菩薩の上首上行菩薩がなされるべきことですが、凡夫僧である日蓮大聖人は、御自身がその上行の再誕であるという表現は避けて、その先駆けとして「先立て粗ひろめ」また「先作り顕はし奉る」と言われたのであります。
 この御文は、前に、天台、妙楽、伝教等は本化地涌でなかったために、題目を流布し御本尊を顕すことができなかったと述べられた文と比べ合わせてみれば、その元意は明瞭であります。
 大聖人が、いま現実に題目を流布し、御本尊を顕されているということは「先(まず)」「先立て」等と断られているにしても、資格なくしてできることではない。したがって、大聖人は、法華経との関連でいえば、本化地涌の菩薩の上首上行の再誕であり、いま末法という時に出現して、この大法を建立されているのであります。
 しかしながら、上行再誕というだけでは、日蓮大聖人の本地を明らかにしたことにはならない。今この文に「本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給ふ多宝仏」うんぬんとある御本尊の御図顕の持つ意味を知らなくてはなりません。
 釈迦、多宝、更に、久遠元初の無作三身如来である南無妙法蓮華経という”仏”の生命をあらわすためには、御自身の内に、その”仏”の生命がなくてはならない。
 事実、日蓮大聖人御自身「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と仰せられているのであります。人法一箇の御本仏であるがゆえに、人法体一の御本尊を御図顕されたのであります。
 そこに、大聖人の「内証――内なる覚り」がある。「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」とは、日本国の上下万人が、どのように大聖人を憎み、迫害を加えようとも、末法御本仏としての、この御境界は、微動だにさせられるものではないということなのであります。
3  仏の智慧でも量れないほどの功徳
 さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品ひゆほんに云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量ちゅうりょうするも多少其の辺を得ず」と云へり
 したがって、このような日蓮を、この佐渡が島まで遠流した罪は、無量劫という長い年月をかけても消滅させることはできない。そのことを譬喩品には「法華経の行者を憎む者の罪は、劫のあらん限り説いても説き尽くすことはできない」とある。また逆に、日蓮を供養し、また日蓮が弟子となり檀那となる功徳というものは、仏の智慧をもってしでも計り尽くすことはできない。その功徳を説いて薬王品には「仏の智慧で計ってみても、その功徳の多少を量り尽くすわけにはいかない」とある。

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