Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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末法の御本仏を宣言  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり
 このような法門は、日蓮を除いて述べた者は一人としていなかったのである。天台大師、妙楽大師、伝教大師等の人々は、内心では法華経の真髄を知つてはいたが、言葉に出して他に向かって説かず、胸中に深く秘していたのである。それも道理である。なぜかといえば、仏から妙法流布の使命を託されていなかった、妙法流布の時がいまだ到来していなかった、仏の久遠の弟子ではなかった、と言う理由によるのである。以上のようなわけで、本化地涌の中でも、上首唱導の上行・無辺行等の四菩薩以外は、末法の始めの五百年の間に出現して、法体の妙法蓮華経を弘めるばかりでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式すなわち本門の本尊を作り顕す資格はない。そのわけは、これが本門寿量品の肝要である事の一念三千の法門だからである。
2  迹門方便品の諸法実相も、本門の虚空会の儀式も妙法蓮華経をあらわしているのであるということは、いまだかつて、誰も言ったことがない。日蓮大聖人が、初めて述べられるのである、ということです。
 しかし、そこに法華経の元意があったがゆえに、天台、妙楽、伝教等の、法華経を本当に読みきった人々は、内心では知っていたことは当然です。したがって「天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり」と言われているのです。
 では、なぜ天台、妙楽、伝教等は、心の中では知りながら、言葉に出して言わなかったか。言葉に出して言わなかったということは、人々に教えることをしなかったわけです。それをしなかった理由として、大聖人はここで三つ挙げられている。
3  一つは「付属なきが故」です。付嘱とは、仏から使命を託されることであります。法華経の会座において、釈尊は、法華経の肝心の法門を弘通する使命を、本化地涌の菩薩に託した。ところが天台、妙楽、伝教等は、その本地は迹化の菩薩である。ゆえに、その使命を受けていない、ということであります。

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