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日蓮大聖人・池田大作

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偉大なる魂の継承劇 プラトン『ソクラテスの弁明』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  弟子の″大闘争宣言″の書
 プラトン著作なるものも何ひとつ存在しないわけだし、また将来も存在しないでしよう。そして今日プラトンの作と呼ばれているものは、理想化され若返らされたソクラテスのものに、ほかなりません。
2  プラトンの書簡の有名な一節である。厖大大な著作のなかで、プラトンがみずからの名を使っているのはたったの三度。彼の対話篇には、師ソクラテスがあらゆる場面に登場し、生きいきと語っている。よく知られているように、ソクラテス自身の著作は一つとして存在しない。弟子プラトンは、みずからは陰に徹して、黙々と筆を走らせた。そして見事に「人類の教師」たる大哲学者ソクラテスの姿を結実させ、永遠の歴史にとどめたのである。
 ソクラテスなければプラトンがなかったように、プラトンなければソクラテスも、人類の血液に滋養を贈ることはできなかったであろう。
 昭和三十七年(一九六二年)二月、私はアテネを訪問した。何人かの友とともに、アクロポリスにのぼり、一望したアテネの壮麗なる景観は、今なお忘れられない。ソクラテスとプラトンの師弟が、行き交ったであろう古代の街並みを思い描きながら、しばし語りあった。ソクラテスの人生最後の劇ともいうべき裁判も、このアテネが舞台である。
 プラトンの初期対話篇に属する『ソクラテスの弁明』では、いうまでもなくアテネの権力者の一派に告発されたソクラテスが行った弁明が書かれている。
 「知りえたかぎりにおいて、まさに当代随一のひとともいうべく、わけでも、その知慧と、正義において、他に比類を絶したひと」たるソクラテスをアテネはいかに遇したか。それは死刑であった。彼の書簡でみずから綴っているように、師の殉難はプラトンにとっては、あまりにも大きな衝撃であった。
 彼はこの事件を機に、人生のコースを大きく変える。師の教えに殉じ、師のために戦いぬいたプラトンの生涯の原点は、ここに深く打ち込まれた。その意味で『ソクラテスの弁明』は師の正義を、満天下に示しゆく声明であるとともに、師を殺した悪に対する、弟子としての大闘争宣言ともいえよう。『弁明』の最後に、ソクラテスはこう語る。
 「私を死刑に判決した諸君、諸君には私の死後ただちに、諸君が私を死刑にすることによって私に加えた復讐のようなものよりも(中略)もっとはるかにひどい復讐がやってくるだろう」と。
 ソクラテスには信ずる青年がいた。後事を託し、何ら心配することのない弟子がいた。そしてこの期待に応えんと、プラトンは炎の心でぺンをふるった。
3  師の心を、わが心として
 八十年にわたるプラトンの生涯は、栄光の都アテネの没落の過程と一致している。生誕は紀元前四二七年といわれる。この年は、ギリシアの世界を二分したぺロポネソス戦争が始まってから四年目のことである。以後、二十余年間、戦争は続く。野蛮と憎悪の悪循環のなかで、人びとは人間らしさを急速に失っていく。「徳」、「知」はかえりみられず、「力」だけがものをいう社会となっていった。
 不幸にも、アテネに蔓延した疫病は、市の人口の三分の一を奪った。この疫病によって、アテネの黄金時代を築いた英雄ペリクレスも病死する。
 プラトンの青春時代──それは、こうした荒廃と苦悩に呻吟する人びとのなかにあった。多感な青年が、確かなる人生の師を、心から求めていたであろう心情が迫ってくる。
 プラトンがソクラテスと出会ったとき、何歳であったかは諸説あるが、本格的に師事したのは、二十歳前後のことであった。ソクラテスの刑死が、プラトン二十八、九歳のことであるから、師弟の交わりは約十年のこととなる。
 ソクラテスとプラトン──二人の巨人の語らいが、どのようであったか。『饗宴』には、一人の登場人物がソクラテスの話を聞いたときのことをこのように語っている。
 「激しく僕の心臓は跳り、またとの人の言葉によって涙は誘い出される。そして他の非常に多くの人々も同一のことを経験するのを見るのである」と。
 魂と魂の轟きわたるような共振──それは師弟という人間関係のなかにこそあろう。たとえ、いかに名をあげ、功なろうとも、師をもたない人生は寂しい。先日、中国の古くからの友人も語っていた。「師弟ほど強く美しいものはありません。簡単なようでいちばん峻厳です」と。
 プラトンは、ソクラテスの感化の力を「シビレエイ」にたとえている。「シビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせる」とは、ソクラテスが語った有名な一節であるが、まさに青年プラトンの闊達な魂は、ソクラテスに完全に「感電」したといってよい。
 アテネの名門の出であったプラトンは、もともと政治家志望であった。身内にも多くの政治家がおり、実際に何度か、政治の場への参加を勧められたようだ。しかし、当時のアテンrの政治家たちは、戦中から戦後の混乱のなかで、私利私欲にこり固まり、腐敗の極みにあった。さらに打ち続く内部抗争は、青雲の志に燃える彼に、失望を与えるのみであった。「政治の道」から「哲学の道」へ、進路を変える決定的要因となったのは、いうまでもなく師の刑死である。プラトンは糾弾する。
 一部の権力者たちが、ソクラテスを、「まったく非道きわまる、誰にもましてソクラテスには似つかわしからぬ罪状を押しつけ、法廷へと引っぱりだし」たと。
 「いちばん正しい人」を悪人として告発する社会、そして政治。すべてが正反対ではないか。恐るべき転倒ではないか。──その悪の根源に青年は眼を凝らしていった。悲嘆を力に変え、彼の真剣な思索は、いよいよ深まっていったにちがいない。そして、こう結論する。すなわち、すべての正しいあり方というものは、哲学なくしては見極められない、と。
 プラトンは師の跡を継ぎ、真実の哲学の確立のため、人生を捧げるのであった。プラトンは観念の人ではなかった。行動の人であった。正義の社会を築くため、東奔西走を続けたのである。
 彼は学園アカデメイアの創立者でもある。教育に生涯を捧げるのも、師の志をともに分かち、ともに戦う同志をつくるためであった。
 「その仕事(=教育)こそ、すべての人が生涯を通じ、力のかぎり、やらなくてはならないもの」──プラトンの最後の著『法律』の一節は私自身の一貫した信条ともなっている。

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