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民衆に愛された哲人 エマーソン『エマソン論文集』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  穏やかな太陽の光、楽しげな樹々のざわめき──。「ルネサンス・シティ」ボストンは、鮮やかな錦繍に包まれようとしていた。
 一九九一年(平成三年)九月、私はこの「アメリカの知性の都」を訪れ、ハーバード大学の招聘を受けて、「ソフト・パワーの時代と哲学」と題する講演を行った。
 そのなかで私は現代世界の潮流として、軍事力・権力・富といったハード・パワーに比べ、知識や情報・文化・システムなどのソフト・パワーがいちじるしく力を増しつつあることを指摘し、この時流を不可逆なものにしていくうえで最も重要な力は、「内発的なるもの」にこそ求められなければならないことを訴えた。
 「内発的なるもの」とは、どこまでも「人間」を、ひいては「生命」を根本に据える透徹した眼差しであり、そうした視座を片時も手放さない逞しき哲学であるといってよい。私は、その比類なき体現者の一人として、エマーソンを挙げ、彼の言葉を掲げた。
 「私のうちに神を示すものが、私を力づける。私の外に神を示すものは、私を、いぼや瘤のように、小さなものとする」
2  「コンコードの哲人」「アメリカ・ルネサンスの旗手」ラルフ・ウォルドー・エマーソン。
 卓越した思想家であり、哲学者であり、詩人であり、またよき教育者でもあった彼の著作は、私が青年時代に愛読した、忘れえぬ「友人」の一人である。いつでもひもとけるように、つねに近くの書棚に置いていたものである。
 戦後の焼け野原のなかで、精神の飢えを癒すかのごとく、いくどとなく頁を繰ったことが懐かしい。
 また、恩師戸田城聖先生からも、「エマーソンは、しっかり読みなさい」と勧められた。エマーソンの名とともに、そうした青春の日々が思い起こされる。
3  「変動する時代」の空気を吸って
 十九世紀が開幕して問もないころ、エマーソンは、ニューイングランドのボストンに生まれた。代々牧師を務めた由緒ある家系で、父親も著名な牧師であったが、八歳のときに、その父が五人の兄弟を残して亡くなり、苦しい生活を余儀なくされている。
 当時のアメリカは、いわば「変化の時代」にあった。産業革命によって社会は大きく変わりつつあった。また、伝統的な宗教も、科学の発達などにより、しだいに崩れていった。エマーソンは、そうした価値観が変動する時代の空気を呼吸しながら、育ったのである。
 少年時代、彼に影響を与えたものとして、温かな母の愛情とともに、教育熱心な叔母の存在が挙げられる。彼女は、幼いエマーソン少年に、「高い目的をかかげよ」「怖ろしくてできないと思うことを為せ」「崇高な人格は必らず崇高な動機から生れる」と、繰りかえし教え諭したという。
 後年、彼は、子どもを一個の人格として尊重した叔母の教育を「かけがえのない天の恵み」と述懐している。
 やがて、十四歳でハーバードに入学、古今の哲学や文学に親しんでいった。さらに神学部へと進み、二十五歳の若さでボストンの著名な教会(ユニテリアン派)の副牧師に就任する。
 ユニテリアン派とは、キリスト教の伝統教義である三位一体論に反対し、神性はあくまで単一であると主張する教派である。
 彼の巧みな雄弁術は多くの人びとを魅了し、その名声は急速に高まっていった。ほどなく正牧師が病気のため引退し、教会の全責任は彼の双肩に委ねられた。そのかたわらで、マサチューセッツ州議会上院の顧問牧師に選ばれ、ボストン教育委員にも選出されるなど、きわめて恵まれた人生の出航であった。
 その順風にただ帆をはるだけであったならば、哲人エマーソンは誕生しなかったであろう。しかし彼の胸中には、いかなる地位や名誉をもってしでも、かき消すことができない「内なる声」が、絶えず響いていた。
 彼のめざしていたものは、牧師という職業ではなく、あくまでも宗教者としての真の務めであったのである。「内なる声」は、理想と現実のはなはだしい乖離を、鋭く彼に告げていた。
 当時の教会には、権威によって課せられた「死んだ形式」が、根強くはびこっていた。また、孜々として集う貧しき人びとを見下すような空気も一部にあった。枯れ葉のごとく生命を失ったみせかけの儀式ばかりで、自発的な瑞々しい信仰の精神は、すっかり色槌せていたのである。

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