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日蓮大聖人・池田大作

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「最極の宮殿」はわが胸中に ミルトン『失楽園』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  恩師は、よく言われていた。
 「青年ならば、苦労は買ってでもするものだ。苦労し、悩んでこそ、偉大な人間になれるのだよ」
 その厳父の声が、今も耳朶に響く。
 昭和二十六年(一九五一年)の正月八日、私は「日記」にこう記している。
 「帰宅、十時、読書、ミルトン『失楽園』」
 私は二十三歳。戸田先生のもとで働き始めてから、三年目を迎えていた。
 前年から、先生の事業は深刻な苦境が続いていた。
 「闇が深いほど暁は近い」という。しかし、本当に出口の見えぬ、長く苦しい「深い闇」の時期であった。
 同僚は次々に職場を去っていった。先生に司直の手が伸びる恐れさえあった。先生は万一のために、すでに創価学会理事長の立場も辞されていた。
 しかし、激戦の矢面に立たれながら、まったく泰然自若としておられた。偉大な先生であられた。
 私は一人、青年らしく懸命に戦った。何よりも師を守るために、未来の突破口を開くために──。
 同じ日、私は一詩を綴った。
 「苦しむがよい。/若芽が、大地の香りを打ち破って、/伸びゆくために。
 泣くがよい。/梅雨の、彼方の、太陽を仰ぎ見る日まで、/己むを得まい。
 悩むがよい。/暗き、深夜を過ぎずして、/尊厳なる、曙を見ることが出来ぬ故に」
 闇は深かった。だが、師とともに、決然と進む胸中には、希望の炎が燃えていた。
 苦難は即幸福であった。
2  「無教会主義者」として
 イギリスの詩人ジョン・ミルトンの代表作『失楽園』は、私の青春の思い出とともに、決して忘れることはできない。また、一九九〇年秋、オックスフォード大学の「ボドリーアン図書館重宝展」を八王子の東京富士美術館で開催したとき、ミルトンの最初の『詩集』が出品された。まるで「旧友」に再会したような感慨を覚えたものである。
 『失楽園』は全十二巻(初版十巻)、一万五百余行におよぶ雄大な叙事詩である。同時代の詩人ドライデンは、往古の大詩人であるギリシアのホメロス、ローマのヴェルギリウスに比肩すると称えたという。
 しかし、この畢生の大作は、穏やかな幸福の結果ではなかった。むしろ血涙しぼるがごとき苦悩の大樹に実った果実であった。ここに、私は惹かれた。
 青春時代のミルトンは、一言でいえば不断の「勉学の人」であった。十二歳以降、夜半まえに勉強をやめて寝たことはほとんどない、と述懐しているほどである。ケンブリッジ大学に学んだ後も詩作と古典文学研究に没頭。早くから「詩人」となるべき使命を感じていたようである。
 二十九歳の時(一六三八年)、彼は勉学の総決算として、フランスなどへ赴く。イタリアでは、宗教裁判にかけられて幽閉中の天文学者ガリレオ・ガリレイとも会見。自由を抑圧する権威への怒りは、彼の魂深く刻みこまれた。
 旅行中、祖国の内乱の報が飛びこむ。国王チャールズ一世は国教会と組んで国王専制を強め、議会に勢力を持つ清教徒を圧迫。ついに双方、武器を持って立ち上がったのである。ミルトンは、自分だけ外国旅行はしていられないと、物情騒然たる祖国へ戻る。
 一六四二年、クロムウェルが兵を起こし、戦いの末、清教徒を中心とする議会軍が王党軍を撃破。一六四九年には、共和制が実現する。こうしたなか、ミルトンも、革命を擁護する数々の論説を発表。共和政府の秘書官にも就任し、「自由の戦士」として戦った。
 みずから「左手の芸」と呼び、時に辛錬をきわめた彼のパンフレットは、堕落した教会制度の改革を主張したのに始まり、「宗教的自由」「言論・出版の自由」「市民的自由」等々、あらゆる角度から「自由」を訴えた。地上の楽園──「新しいイギリス」の到来を恋慕するかのように。
 ここで、ミルトンの宗教観について、一言ふれておきたい。「ミルトンは終りまで高貴荘厳なる無教会主義者であった」──内村鑑三の評言である。それは峻厳なる清教徒という意味だけではあるまい。教会から破門されたトルストイが「神の王国は汝の胸中にあり」と叫んだがごとく、彼の眼も「人間の内面」に注がれていたからだ。
 ミルトンは、当時行われた宗教改革には満足しなかった。「宗教改革それ自身の改革」さえ訴えていた。彼には、自分の信仰の「責任と義務」は「或る代理商、すなわち誰か名が聞え尊信されているに違いない神学者」などに任せてはならないものであった。
 魂の救いの「責任と義務」は自身にある。これを放棄する「お任せ信仰」は人間としての「自由」を放棄するものだというのである。その叫びは、三世紀半の時を超えて、現代の宗教の在り方をも問いかけている。
3  口述筆記された大叙事詩
 やがてミルトンの身の上に、また共和政の上に、嵐が襲いかかる。彼の両眼の失明である。時に四十三歳、長年の過労のためであった。敵対者は「天罰だ」といって嘲笑さえした。しかし、彼は「自分の運命を私は恥とも思わないし、悔いてもいない。私の決意は極めて堅く、揺るぎないものである」と毅然としていた。
 苦難は続く。数年を絃て、クロムウエルが死去。ここぞとばかり、王党派が勢いづく。ミルトンは懸命に共和制を弁護し、「自由の最後の言葉」を守りぬこうとした。だが、すでに時流は変わっていた。王政復古──一六六〇年五月、人民は、国外にいたチャールズ二世を歓呼で迎える。革命は敗退した。
 共和派への厳しい弾圧の開始。ミルトンは危うく処刑を免れるが、著書を焼かれ、投獄もされた。二十年におよぶ「自由への戦い」は何だったのか。失望は、探かったろう。家庭的にも不幸な出来事が続いていた。
 しかし、信念は不動であった。否、現実への悲嘆と幻滅を発条にして、今や彼の「心の眼」は一段と浄化され、自身の真実を凝視していった。そのなかから、傑作の『失楽園』は生まれた。大叙事詩の執筆は、詩人の一生の宿顕であった。
 さらに『復楽園』、自分と同じ境遇の勇者を主人公にした『闘士サムソン』を発表。こうして晩年、三つの大作を完成させた。すべて口述筆記である。苦難に耐え、「詩人」としてみずからの使命に殉じた生涯であった。
 その姿は、青年時代、私が愛した「波浪は、障害に遭うごとに、その頑固の度を増す」という言葉を思い起こさせる。

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