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日蓮大聖人・池田大作

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あくなき魂の希求 パスカル『パンセ』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「病によって道心は起こる」と、仏典に説かれている。
 病苦は時として人間を高めゆく力となる。とくに多感な青年期の闘病は、生死を見つめ、自己の魂を鋭く研ぎすます機会となるであろう。このことを身をもって示してくれるのが、パスカルの生涯である。
 フランスの偉大な数学者・物理学者にして哲学者・宗教者──。この「恐るべき天才」(シャトーブリアン)は、早くから病弱に悩み続けた。神経的な過敏や四肢の衰弱、頭痛などの症状に襲われ、十八歳のときからは苦痛なしに過ごした日はないというほどであった。
 わずか三十九年というパスカルの一生は、迫りくる死の深淵との絶え間ない闘争であった。だが、それ故にこそ彼の生涯の軌跡は、かくも鮮烈な光彩を放ちえたのだと私は思う。
 彼の苦闘を思うとき、やはり生来の病弱に悩み、死魔の影と闘いながら歩んだ私自身の青春時代が、二重うつしになって脳裏に甦ってくる。
 私が『パンセ』を手にしたのは、昭和二十四年(一九四九年)六月十三日のことである。当時の「日記」には、こう記してある。
 「神田にて『パスカル冥想録』『情熱の書』他一冊、計三冊購入。合計、百二十円也」
 その同じ日、こうも書いている。
 「朝から頭が痛む。身体を大事にせねばならぬ。
 変遷に変遷を重ねゆく心境。目的を凝視していながら、ふらふらしている自己の悲しさ。勇躍し、はち切れそうな青春時を実感したかと思うと、魔に流され、断崖に立つ思いをなす、自己。
 宗教革命と、大理想を、思惟したかと思うと、現実の嵐に、境遇に、おののくく、淋しき自己。
 青年よ起ち上がれ。前進だ。それ以外に、人間革命はないのだ。
 現実の渦中に、飛び込んで戦え。恐るるな。大使命を痛感せば!」
 ──二十一歳であった。出版事業が苦境にあった恩師のもとで、少年誌の編集責任者として、心身ともに極限の力をふりしぼって奔走する日々であった。胸を患い、徴勲に見舞われながら激務にひた走る私の身体を、恩師は深く案じてくださった。
 宗教革命への決心を日記に記したとき、私の胸中には、この夭折の天才への特別な感慨があったのかもしれない。
2  科学の探究から信仰の道へ
 ブレーズ・パスカルは一六二三年六月十九日、フランスのクレルモンに生まれた。
 母アントワネットは優しく聡明な女性であったが、パスカルが三歳のときに他界している。父のエティエンヌは再婚することなく、パスカルと姉のジルベルト、妹のジャクリーヌの三人の子どもを養育した。
 父はパスカルを学校に通わせず、みずから独自の方法で教育する。むやみに知識をつめこむのではなく、息子が自発的に独力で学べるように努めた。少年は早くから抜群の想像力や記憶力を発揮し、あらゆる物事の仕組みを知ろうと熱心に求めた。大人のいいかげんな説明には、食いさがって質問を浴びせたという。
 少年は、やがて数学に強い興味を抱く。父は息子が十五、六歳になるまでは数学を教えないつもりでいたが、当人は早々と、自分で円を「丸」、線を「棒」と呼んで、いろいろな計算や証明を試みだした。
 彼は十二歳にしてユークリッド幾何学の第三十二命題「三角形の内角の和は二直角に等しい」の証明を成し遂げ、以降、「円錐曲線試論」の著述(十六歳)や「計算器」の発明(十九歳)、有名な「パスカルの定理」、「真空」の存在についての実験(二十三歳)など、驚嘆すべき業績をあげ、注目を浴びていく。帰納法や確率論、積分法の取引山など、研究の手はついにやむことがなかった。
 ことに「真空」の証明については、当時すでにすぐれた哲学者・科学者として知られていたデカルトが、この二十七歳年下の青年科学者を訪れ、意見を交換している。デカルトは真空の存在に否定的であったから、二人の対話は知性と自負の火花を散らし、真理への探究心に燃えたものであったにちがいない。
 一六四六年、パスカルはジャンセニストたちとの出会いを契機に、信仰に心を向けていく。ジャンセニスムとは、宗教革命に対抗してカトリック内部で進められていた改革(反宗教改革)の流れに属するグループで、修道院ポール・ロワイヤルをその拠点とした。彼は家族を熱心に説き、同じ信仰の道に入らせた。
 三年間にわたる社交界での生活を経験し、「人間の研究」に関心をもちはじめたパスカルは、信仰心の高揚とともに、懐疑的な人びとを導くための「キリスト教弁証論」を構想し、準備に取りかかった。彼の死で未完に終わったこの仕事こそ、不滅の著作『パンセ』である。
 パスカルが書き留めた断章を、近親者や友人たちが集めて出版したのは、彼の死後八年を経た一六七〇年のことである。ボール・ロワイヤル版と呼ばれる初版の原題は『死後遺文中に発見された宗教その他の問題に関するパスカル氏の思想』であった。
 包括的な世界観を形成していた中世のスコラ哲学の崩壊したあと、カオス(混沌)をどうコスモス(秩序)へと転じていくかは、当時のヨーロッパ社会が直面していた普遍的な課題であったといってよい。デカルトもパスカルも、天才的な科学者であると同時に、外なる世界と内なる世界との調和・バランスを、生涯にわたり希求しぬいた。
 哲学と科学の親近ということは、近年のベルクソンに見られるように、フランス哲学の伝統的美質でもあるのだが、『パンセ』冒頭の「幾何学の精神」と「繊細の精神」との対比は、この問題を、いかにもパスカルらしく、優美ささえ帯びたつよい筆致で、読者につきつけている。
 私の恩師は、よく「理は信を生み、信は理を求める。求めたところの理は信を高める」と語っていた。理性と信仰が車の両輪のごとく、人間の心を豊かに耕していくものであることを教えてくださった。それは科学の探究から信仰に目覚め、「幾何学の精神」と「繊細の精神」との調和を説くにいたったパスカルの思策と、深く響きあうものであろう。
3  「中間者」としての人間
 『パンセ』の全篇に脈搏っているもの──それは「偉大なる者」へのあくなき魂の希求である。
 たとえばパスカルは、「私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない」(四二一)と語っている。「呻きつつ求める人」とは、魂の探究者として生きぬいた彼自身の「自画像」そのものであった。
 彼にとって人間は、偉大さと悲惨さ、神と自然のはざ間に流離う「中間者」の存在である。「宇宙の栄誉にして屑者!」(四三四)と、彼は人間存在を慨嘆する。故に「人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある」(三七八)。人間が真に人間らしく生きる道は、この自己の実相を凝視し、「偉大なる者」を求めぬくこと以外にないとパスカルは説くのである。
 「中間者」としての人間とは、いわば「求道者」の異名にほかならなかった。
 こうした人間観が、パスカル自身の精神に極度の「緊張」と「集中」を強いたことは、想像に難くないであろう。
 「イエスは世の終りにいたるまで苦悶し給うであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(五五三)と彼は言う。
 自身、まんじりともせぬ魂の「覚醒者」であったパスカルの眼には、たとえばデカルトのいわゆる「方法的懐疑」にみられる不敵な自信は、神の存在の必然性を語っているようでいて、むしろ神をなみする倨傲きょごう以外のなにものでもなかったはずだ。
 「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない」(七七)
 デカルトとパスカルと、どちらが正しかったかを論議しても、あまり生産的ではないだろう。両者ともに、容易に追随を許さぬ、比類なき生と思索のスタイルを残している。ただ、デカルトを「父」とする近代哲学を機軸としたヨーロッパ近代文明が、理性に過度に依存するあまり、重大な行きづまりを招き寄せてしまったことは、世紀末の現代、否定しようのない事実である。

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