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日蓮大聖人・池田大作

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「魂の自由」の烽火 ルソー『社会契約論』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  恩師戸田城聖先生を囲み、フランス革命の時代背景について論じ合ったことがある。
 戸田先生は言われた。
 「フランス革命には、火つけ役がいた。それが、ルソーである」
 フランス革命に先立ち、ルソーらの啓蒙思想家の活躍があったことは、よく知られている。まさに「思想の力」は巨大である。思想は人間を動かし、時代を開き、世界を変える。ルソーの思想に学んだ青年たちが、民衆の自覚を高め、革命のエネルルギーに点火したのだ。
 思師は、こうも言われた。
 「フランス革命を理解するには、まずルソーを読まなければわからない」と。
 私の終戦直後の一時期、ルソーの『エミール』や『社会契約論』『人間不平等起原論』などを一気に読んだ思い出がある。『エミール』については前にもふれたが、そこには、一個の「人間」を育てるために、いかに「自由」と「平等」が大事であるかが説かれている。教育者であった戸田先生、その師である牧口先生も、『エミール』をはじめルソーの書を愛読されていた。
2  自由こそ人間性の証
 さて、『社会契約論』が出版されたのは、今から二百三十年まえの一七六二年四月、ルソー四十九歳の時である。『エミール』がこの翌月に刊行されており、歴史に残りゆく大著がほぼ同時期に世に出された。
 『社会契約論』では、いかにして国家は構成されるかが説かれる。ルソーによれば「国家」は「家族」と違って「契約に基づいてのみ基礎づけられる」という。「国家主権」は″頭″であり、「法律」と「慣習」は″脳髄″である。「商工業」と「農業」は″口″と″胃″であり、「財政」は″血液″であり、「経済」は″心臓″である。つまり「国家」は、人間の身体にも譬えられるという、いかにも分かりゃすい比喩で説かれている。
 ルソーは、国家は個人の自由と矛盾するものであってはならないと説く。彼はいっさいの出発点は「人間の自由」であり、「人間の自由意志に基づく約束」を、すべての権威の基礎においている。またルソーは、人間が社会状態のなかで、「自由」と「平等」をどう回復するかの問題を取り上げる。『社会契約論』第一編第一章の冒頭、次のような有名な一節がある。
  人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。
  
 この言葉は、人間が本来、自由であることの宣言として、今なお大きな意義を持っている。
 人間は、誰もが原初的には自由な存在であった。しかし、なぜ「鉄鎖」につながれてしまうのか。奴隷的な不自由が生じたのか。いったい、人間にとって「自由」とはなにか。どうすれば人間は、自由を楽しみきっていけるのか。このことは古来、多くの賢人や哲学者たちが、追い求めてきたテーマであった。
 『エミール』に、このような一節がある。
  自由は、いかなる統治形態のもとにも存在しない。それは自由な人間の心のなかに存在する。自由な人間は、いたるととろに自由をもち歩く。卑しい人間はいたるところに隷属をもち歩く。ある人はジュネーヴにいても奴隷であり、ある人はパリにいても自由である。
3  ルソーは「真実の自由」を人間の心のなかに見いだすとともに、他に隷属する人間、また、他を隷属させようとする人間の心の卑しさを、厳しく追及する。彼は、奴隷制について論じつつ、次のように強調している。──みずからの意志で自由を放棄するものは、人間としての諸権利も義務も放棄したことになる。自由なきところに、真の人間性の発現もない。まして自分の行為に責任をもつという道徳性もない。故に自由こそ、人間性の証である、と。
 自由とは、座して待つものではない。みずから戦い、勝ちとらなければならない──。
 このルソーの心からの叫びは、民衆の胸奥にこだまし、反響を広げていった。やがて彼の没後十一年にして起こったフランス革命は、まさに圧制からの「自由」を渇望する民衆解放の戦いであった。

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