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日蓮大聖人・池田大作

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豊かな人間学の宝庫 司馬遷『史記』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「青年は、小心であってはならぬ。気宇壮大なる人間に育つためにも、偉人伝など歴史の本を読むべきだ」
 戸田城聖先生は、そうおっしゃられて、いつお会いしても「今、何を読んでいるか」と訊かれるのが常であった。それは──今となっては最晩年の昭和三十三年(一九五八年)三月、法華本門大講堂の落成記念登山のために一カ月間にわたった大石寺滞在中でも変わらなかった。先生は私に対して、こう指導された。
 「戦おうではないか! 日蓮大聖人は、『御書』に『謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり』と仰せである。どこにあっても常在戦場のつもりで、民衆のために戦おうではないか!」と。
 先生のお体は衰弱し、独りで歩ける状態ではなかったが、その気迫は烈々たるものがあった。あのときの火を吐くような言々句々は、今でも私の耳底から離れない。
 思えば、私が戸田先生の会社に勤めたのは、昭和二十四年(一九四九年)一月三日からだった。満二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。それからの十年間というもの、先生の訓練は厳しかった。毎日のように私に対する薫陶は続いた。
 毎朝、仕事の始まるまえには先生じきじきの個人教授がなされた。『御書』を拝しての指導は当然として、人文・自然・社会科学など万般にわたる勉強だった。私は日曜日にも先生のお宅にうかがい、朝から晩まで研鎖に励んだこともある。
 話題は人生論に始まり、古今東西の指導者論から哲学・文学、さらに政治や経済・教育・文化、組織論にもおよんだ。すぐれた教育者でもあった先生の知識は豊かで、興味深い話ばかりだった。
 なかでも先生がよく語っておられた話に、『史記』や『十八史略』など中国の史書にもとづくものがあった。
2  中国「正史」の父
 司馬遷の大著『史記』百三十巻は、まさに豊かな人間学の宝庫といってよい。今から二千年以上も昔に書かれた中国最古の通史、悠久なる中国史の原点ともいうべき史書である。西洋で前五世紀のギリシアの史家へロドトスが「歴史の父」といわれるように、司馬遷もまた「東洋史の父」と呼ばれるにふさわしい存在であろう。
 その著『司馬遷』と『史記』の研究により、コロンビア大学で博士号を取得されたパートン・ワトソン博士は次のように分析する。
 「この書物が書かれてから約二千年間において、あらゆる中国の歴史書のうち最も広く、最も大きな感動をもって読まれた書物の一つであった。その体裁は後世の『正史』の模範となった」
 ちなみにワトソン博士は日本での研究生活が長く、日本語を話すのも達者であられる。私も一九七三年に初めてお会いして以来、何度かお目にかかっているが、その聞に博士は『私の釈尊観』や『私の仏教観』などを英訳してくださった。最初にお会いして以来の約束を堅く守られ、十六年間もかけて鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の英訳も完成された。まことに信義に篤い学究として、私も心から尊敬する大学者の一人である。
 そのワトソン博士は、また『史記』について次のように述べている。
 「その内容と文体は、中国および中国文化の支配下にあった国国の文学に測り知れない影響を与えたのである。しばしば行なわれる比較をくりかえすと、へロドトスがギリシア・ローマ世界の史書の伝統に与えたのと同じような影響を、司馬遷は中国・朝鮮・日本・ベトナムのそれに与えたのである」
 たしかに『史記』の影響力は絶大である。たとえば二千年後の今日、「先んずれば人を制す」とか「怨み骨髄に入る」といった表現がなされるが、その出典は『史記』に求められる。また「合従連衡」「臥薪嘗胆」「傍若無人」「法三章」「背水の陣」「四面楚歌」「曲学阿世」「左遷」等々、いずれも司馬遷の伝えた故事・名言である。その意味を調べるだけでも、読んで面白い。
 歴史を動かした多彩な人物の思想や感情の流れが克明に描かれている。今風にいえば記録小説とも、ノンフィクション作品ともみなされよう。
 その構成は、まず有史以来の王朝の歴史を「本紀」十二巻とする。次に系図および年表を「表」十巻として示す。また儀礼・制度・音楽・天文・暦法など、文化のさまざまなジャンルの概観を「書」八巻にまとめ、さらに諸侯などの歴史を「世家」三十巻に収める。そして最後に個々の人間の伝記を「列伝」七十巻において叙述する。合わせて百三十巻、五十二万六千五百字の大冊である。
 どこから読んでも構わないが、戸田先生は日ごろから「本を読むときは、まず序文を読むことだ」と、おっしゃられていた。序文には、作者の意図が述べられているからだ。
 そこで『史記』の序文として、最後の「列伝」第七十に「太史公自序」という一巻がある。ここに司馬遷が総合的な世界史を書くにいたった意図が詳しく述べられる。ちなみに「太史公」とは宮中における記録係の官職名で、司馬遷は当初、この書を『太史公書』と名づけた。史官の記録という意味の『史記』と呼ばれるようになったのは彼の死後約三百年、三国時代以後のことであるという。
3  なぜ世界史を書いたか
 多くの論者が指摘するように、司馬遷が『史記』を完成するまでには、その人生において二つの大きな転機があった。一つは父の遺言であり、もう一つは名将・李陵の禍である。
 それを「太史公自序」で見よう。父は、漢の武帝(前一五六年〜前八七年)の建元・元封年間に宮中の記録係「太史令」に出仕した司馬談である。子の遷は十歳のとき父親から古文を教えられ、早くも古典を読んだという。また都の長安では、当時の大学者・董仲舒とうちゅうじょから『春秋公羊くよう伝』を中心に儒学を学ぶことができた。
 遷は二十歳のころ、長江(揚子江)流域に旅行した。また斉や魯の故郷での留学を含む二、三年間に各地で史跡を調査、さらに民間伝承を採集した。この大旅行によって得られた知識が、のちに『史記』をまとめる際、大いに役立ったことはいうまでもない。
 旅行から帰ると、遷は宮中での官吏見習い兼侍従たる「郎中」に任じられた。前一一一年には武帝の命令で四川・雲南方面に旅行し、翌年に帰朝した。だが、折しも洛陽の近くで病床にあった父親を見舞うと、父談は泰山での封禅の盛儀(天子の行うまつりで、封は土を盛って壇をつくり天を、禅は地面を平らにして地をまつること)に参加できなかった無念を語りつつ、子の遷に対して次のように遺言したという。
 「わが先祖は周室の太史であった。上世において虞夏の時代に功名をあらわして以来、天文のことを、つかさどってきた。その後中ごろから衰えた。わしの代に絶えるのであろうか。そなたがまた太史になったならば、わが先祖の業をついでくれ。いま、天子は千歳の皇統をつぎ、泰山で封禅の礼をおこなっている。それなのに、わしはその行事に参加することができない。ああ、天命なるかな。天命なるかな。わしが死んだら、そなたはかならず太史になるだろう。太史になったら、わしが論著しようとのぞんだところを忘れ、ないでくれ」
 「遷は首をたれ涙を流して言った。
 『わたくしは不敏ではありますが、父上が次第づけられました旧聞をことごとく論述し、すとしも欠けるところのないようにいたしたいと思います』」
 かくして司馬遷は、父の遺言どおり初めて世界史を書く決意を固めたのである。
 父の死後三年、司馬遷は前一〇八年に太史令となるや、帝室図書館の古記録や図書を精力的に調査した。さらに四年後、前一〇四年十一月一日を起点とする太初暦の作成を監督した。かくて「太初」と改元されたその日、彼は『史記』の執筆を開始したのである。
 執筆に専念して七年目、司馬遷にとって思いもかけぬ事件が持ちあがった。匈奴討伐に奮戦して捕虜となった名将・李陵を弁護したことから武帝の逆鱗に触れ、男子として死刑より重い宮刑(腐刑)の恥辱を受けたのだ。彼の人生にとって、第二の転機である。
 だが司馬遷は、恥を忍んで生き長らえた。「司馬遷は生き恥さらした男である」(武田泰淳)といわれるが、二年後には宣官として宮廷に戻った。こんどは天子の秘書長役である「中書令」となった。もつばら『史記』を完成させたい執念からである。
 なお司馬遷が弁護した李陵は、石に矢を貫いたことで知られる李広将軍の孫(または子)だった。また李陵と同時代に匈奴へ使いし、「持節十九年」として有名な蘇武の話は、『御書』にもしばしば説かれている。三人の友情と悲哀については『史記』や『漢書』の記述をもとにした中島敦の名作『李陵』に詳しい。
 また司馬遷の苦衷は死刑囚の友人・任安じんあんにあてた書簡に切々と綴られている。ただし、そのころには『史記』も完成に近づき、正本を名山に所蔵、副本を長安におき、後世の聖人君子に期待すると「自序」に記されている。はたして『史記』が読まれるようになったのは、司馬遷の死後約三十年くらいからである。

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