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日蓮大聖人・池田大作

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革命と良心の葛藤劇 ユゴー『九十三年』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「大文豪、ユゴー。
 革命の大叙事詩、小説家ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』完読。感多し。
 我が国でも、彼の如き、大小説家の出現を、望んで止まぬ」
 今から四十一年まえの昭和二十六年(一九五一年)一月十三日の「日記」の一節である。当時、私は二十三歳であった。
 ロマン派の巨人ヴィクトル・ユゴーといえば、恩師戸田城聖先生も愛読された。私ども青年に対しても「ユゴーを読め」と、幾度となく強く勧められた。ユゴーの作品とあれば、青春時代にほとんど読み切ったものである。
 思えば──戸田先生のご生涯もまたユゴー文学を体現したかのような一生だった。それは「正義」と「人間愛」に燃えた炎の生涯だった。傲慢な人とは徹底して戦い、邪悪とは絶対に妥協しなかった。それでいて悩める人、苦しむ人、さらに悲しみの人びとには限りなく優しい恩師であられた。
 われわれは恩師を囲み、ユゴlの『九十三年』をはじめ、数々の作品をとおしながら、人道と人権、革命と教育の赫々たる理想を学びあったものだ。フランス大革命の時代背景や登場人物の思想を分析しつつ徹底して読んだ。
 そのときの、魂を揺さぶられるほどの感動と共鳴は、今でも万感、胸に迫るものがある。
2  波澗万丈の生涯
 ヴィクトル・ユゴーは、十九世紀フランスの詩人にして偉大な文豪である。日本でも黒岩涙香の翻案になる『噫無情』(『レ・ミゼラプル』のこと。この作品については前に取り上げた)の原作者として有名だ。彼は詩人として出発、その天賦の才能をほしいままにした。
 「ぼくの小さかったころ、偉大な人物がごく近くにいた。父親と皇帝だ。なぜだかはっきりとは分からない。心の中では憎んでいたのに、この二人にとてもあこがれたなあ」
 ユゴーは少年時代を回想して、こう述べている。彼の父親は偉大なるナポレオン軍の将軍だった。となれば「皇帝」は、若くしてフランス革命に身を投じた英雄ナポレオン一世であろう。二人とも少年ユゴーにとって、ごく親しい人物だったのは当然である。
 早くから「神童」とうたわれたユゴーは、十七歳で兄とともに雑誌を創刊、創作活動を開始した。二十歳のころには処女詩集『オードと雑詠集』を著した。ロマン派の詩人ユゴーの華々しい出発である。
 一八二九年、ユゴーは二十六歳で『東方詩集』を発表した。これはオリエント、ギリシァ、トルコ、アラビア、ぺルシアなど、東方の新世界への憧れを歌ったもの。この詩集によって、詩人ユゴーの名声は不動のものとなった。彼は、たちまちにしてロマン派の若きリーダーとなる。
 一八四一年、ユゴーは念願のアカデミー・フランセーズ(フランス芸術院)入りを果たした。三十九歳である。さらに一八四五年、四十三歳で貴族院議員となった。
 むろん彼は、政治の力だけで社会を変革しようとしたのではない。一八四八年、嵐のような「二月革命」の際には民衆の側に立ち、素手で銃剣に立ち向かった。また一八五〇年の議会では「地上の貧困を絶滅させなければならない」と熱弁をふるった。彼は社会の矛盾を深く自覚し、一部の権力者がいっさいを独占しようとする事態に猛然と抗議し、民衆を擁護したのである。
 だが一八五一年十二月、ルイ・ナポレオン(皇帝ナポレオン三世)がクーデターを起こし、ユゴーなど共和派は追放された。この新たな独裁者により虐殺された共和主義者もいた。その結果、ユゴーはベルギーのブリュツセルから当時は英領のジャージー島、さらにガーンジー島へと、じつに十九年にもおよぶ長い亡命生活を余儀なくされた。年齢でいえば、最も活躍すべき四十九歳から六十八歳にいたる期間である。
 しかしユゴーは「亡命しているのはわたしではない。自由が亡命しているのだ」と、そう言って怯まなかった。「祖国フランスに『自由』が戻るとき、わたしもまた、フランスに帰るであろう」との決意のままに、彼は最後まで皇帝ナポレオン三世の圧政に屈しなかった。
3   悪運のつよい、光り輝くあの帝国の上に、
  神の怒りの雷をまぬがれた勝利の上に、
  さらし台をいくつもうち建てて、それを一つの叙事詩としよう!

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