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日蓮大聖人・池田大作

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ルネサンスへの讃歌 ダンテ『神曲』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  青年時代──私はダンテの詩を、こよなく愛した。詩は、人間精神を限りなくひろげ、ゆたかにするものだ。
 「ダンテを知る者は文学の秘鑰ひやく(秘密のかぎ)を握る」ともいわれるが、その作品に初めて接したのは、敗戦後まもないころである。当時まだ十代の私は青年同士の読書サークルに参加し、新生日本の行方を模索した。ダンテの『神曲』は、そこで取り上げられ、この作品を素材にして、イタリア「ルネサンス」(人間復興)の精神を友人たちと語り合ったものだ。
 テキストは、たしか大正時代に警醒社書店から出版され、名訳との評判が高かった山川丙三郎訳である。難解ではあったが、人生の道を求めていた私は「どうしても解りたい」との一心から、それとそ毎晩のように読みかえした憶えがある。
 私にとって生涯の恩師となる戸田城聖先生に出会ったのは、ちょうどそのころ、忘れもしない十九歳のとき──昭和二十二年(一九四七年)八月十四日、二度目の終戦記念日の前日だった。その三日後の十七日、ダンテ『神曲』の翻訳者・山川丙三郎氏が急逝されている。
2  迫害の連続だった生涯
 イタリアの詩聖と仰がれるダンテ・アリギエリは、花の都フィレンツエ(フローレンス)に生まれた。日本でいえば鎌倉時代の文永二年──日蓮大聖人が伊豆流罪から故郷安房(今の千葉県南部)に戻られたとろ──すなわちダンテは、大聖人より四十三年後に生まれた人である。
 そのダンテの生涯と『神曲』について、私は今から二十年近く前に対談したトインビー博士の言葉が忘れられない。談たまたま「好きな作家は誰ですか」と私がうかがったところ、博士は真っ先にダンテを挙げられた。
 「ダンテは二つの点で、とても不運な人間でした。一つは愛する人と別れねばならなかった。一つは愛する故郷フィレンツェを不当な理由で追放された。しかしダンテがもしこの二重苦を味わわなかったとしたら、あの『神曲』は決して生まれなかったでしょう。ダンテは、偉大な芸術を生みだすことによって、みずからの私的な不幸を世界の多くの人びとの僥倖へと転換しました。だから私は、ダンテの人格を敬愛してやまないのです」
 たしかにダンテは、その生涯において二つの不運を経験した。しかし彼は、みずからの不運と悲哀を発条として、不朽の名作『神曲』を残すことになったのである。
 ダンテの生涯における第一の不運とは──永遠の恋人ベアトリーチェとの出会いと別れである。二人の出会いは一二七四年春、フィレンツェの花祭りの日だった。その日、ダンテは父親と一緒に、ある銀行の重役の家に招かれた。その家には、少年ダンテと同じ年ごろの娘で、通称「ビーチェ」と呼ばれる令嬢がいた。初めて見る彼女は、この世の人とも思えないほど清純で美しく、白い服を着て客の接待をしていた。
 九年後、ダンテ十八歳のとき、近くのアルノー河の聖トリニタ橋のたもとで、二人の友達にはさまれて歩いてくるビーチェ(ベアトリーチェ)に再会した。彼女は、ダンテを見ると懐かしそうに微笑んだ。ダンテは天にも昇った気分で帰宅すると、すぐに「新生」と題する詩を書いた。
 その後もダンテは、しばしば彼女を主題とする詩を書いた。だが二人の恋はプラトニックなものに終わり、ついに結ばれることはなかった。両家が経済的にあまりにもかけ離れていたからである。その後、彼女は銀行家シモーネ・デ・バルディの一族に嫁し、二十四歳の若さで病死してしまった。心の恋人が死んだのを知ったとき、ダンテは精神的に大きな打撃を受けた。その悲哀に打ちかっために、ひたすら哲学書を読み耽ったという。
 そんなとき、悲しみに沈むダンテに同情する女性が現れた。彼女は『新生』第三十五章に描かれる「窓辺の貴婦人」とされている。恋人を失い、失意の底にいたダンテの姿を見て、慈愛深く同情してくれたという。
3  ダンテは、こうしてベアトリーチェの死という悲哀から立ち直った。ボローニャ大学に留学し、やがて祖国フィレンツェのために働く政治家となった。彼は富裕な市民に支持された平和愛好の「白党員」となって活躍。
 だが皮肉なことに、ダンテ三十歳のとき、彼の妻となったジェンマ・ドナーティの一族は、古い封建貴族に支えられた「黒党員」である。この黒白両党は以後、骨肉相食む血みどろの抗争を繰りかえすことになる。
 ダンテは三十五歳のとき、他の四人の政治家とともにフィレンツェの最高責任者である「統領」の一人に選出された。このとき彼が戦ったのは、ローマ教皇ポニファチオ八世。野心家の教皇はフイレンツェを自己の支配下に置こうと圧力をかけ、さまざまに画策した。聖職者にあるまじき策謀家である。剛勇の人ダンテは、その矢面に立って教皇の圧力をはねかえそうとする。
 しかし、当時の教会権力は絶大だった。腹黒い教皇と結ぶ黒党の勢力が増し、ダンテはやむをえず和解のためローマ教皇のもとへ向かった。ところがダンテらが旅立った直後、教皇の息がかかったフランス王弟が軍を率い、フィレンツェに入城したのである。白党員は総崩れになり、ダンテ自身もまた欠席裁判で有罪となってしまった。
 公金横領、教皇庁への陰謀、フランス王の弟への妨害運動など、ダンテにとっては身に覚えのない罪である。判決は多額の罰金と国外追放、さらには見つけしだい「火あぶり」に処すという厳しいものだった。財産は没収され、フィレンツェに残された妻子も狙われた。ダンテにとって第二の不運である。

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