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日蓮大聖人・池田大作

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織りなす人物の長篇詩 吉川英治『三国志』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  三国志には、詩がある。
 単に厖大な治乱興亡を記述した戦記軍談の類でない所に、東洋人の血を大きくつ一種の諧調と音楽と色彩とがある。
 三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものになろう。
 小説『三国志』の作者・吉川英治の序文にある一節だ。
 時は後漢の末世──広大なる中国大陸の各地に黄巾賊が跋扈している。赤色の彗星あらわれ、黒旋風が吹き荒れ、ために蒼天すでに死す凶兆に、人心は動揺していた。
 開巻劈頭、悠久と流れゆく黄河の畔に、ぽつねんと坐りこむ青年は、何を見、なにを考えているのだろうか。──見ると、青年は腰に一剣を侃き、飽かず黄河の水の行く末を眺めている。
 「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」
 天に向かって誓うように、彼は空を拝して叫んだ。‥‥
 後漢末から魏・呉・蜀の三国鼎立時代を経て、晋一国に統一されるまでの、雄大なる漢民族の長篇叙事詩ともいうべき『三国志』の幕開きである。
2  私は二十代のころ、この吉川『三国志』を何遍となく繰りかえし読んだ。
 青年劉備が、遥かに黄河の下流を眺望する光景などは、あたかも一幅の絵のように、ありありと思い浮かんでくる。突如、破れ鐘のような大音声を放って張飛も躍りでる。すると、鬚の関羽も馬蹄を響かせて馳せ参ずるであろう。──そういった情景が、若き日の夢とロマンを喚起していた。
 当時の「日記」を見ると、昭和二十八年(一九五三年)四月七日の項に「第三回目の、『三国志』読了」とある。その前後、私は『新・平家物語』や『新十八史略』、それに『水滸伝』といった長篇を、夢中になって読んだ。
 「青年は歴史の本を読め。持つべきは史観である」との恩師戸田先生の指導を、私なりに実践していたのである。前後の日記にも「もっと勉強しなければならない」との自戒の記述が、しばしば出ている。
3  二年後の昭和三十年(一九五五年)春から九月にかけての半年間、吉川『三国志』は水滸会の教材にもなった。
 ある日、水滸会の幹事たちが、教材について戸田先生のところへ相談にうかがったときのことである。かなりの会員が、すでに『三国志』を読んでいることが報告された。
 「いよいよ『三国志』を始めるか」
 そう言って恩師は、破顔一笑され、われわれ水滸会員の要望を容れて下さった。
 明治生まれの先生は、すでに江戸元禄以来のロングセラーである湖南文山訳『通俗三国志』五十巻を、青年時代から幾度となく読まれていたようだ。吉川『三国志』についても、その新聞連載中から愛読され、登場人物をあたかも掌中の珠のように熟知されていた。
 われわれ数十名の会員は、早速、分担して模造紙に「三国鼎立図」を描き、あるいは時代背景を事前に調べたりした。しかし、戸田先生が出席する会合では、次々と立って述べる会員の意見が、いかにも底の浅いものであることを晒す結果になってしまう。
 劉備玄徳を中心に、関羽、張飛のあいだに結ばれた「桃園の義」について、まず会員からさまざまな意見が出された。──「三人の同志が、よく目的を同じくして結束しているのを感じました」とか、「人間の縁の不思議さ、宿命のようなものを感じます」といった見方のほかに、ある会員などは悲壮な決意を秘めて「張飛の言ったように、同年同月同日に死ぬことが、丈夫の精神だと思います」と述べる。
 そうした発言者の表情を、じっと見つめながら聞いていた戸田先生は、おもむろに口をひらいて言った。
 「三人一緒に死ぬという精神はよいが、軍艦に乗っているわけではないから、実際は無理だろう。
 それより大事なことは、三人がともによく互いの短所を知って、補いあっていけたから、団結できたのです。したがって、まず三人の性格上の違いを、よくみていかなければならない。どこに短所があるか、長所は何かを知っていくことが、互いに相手の人物を理解する基本となるものだ。
 結局、三人が結束したのは、義を結んだときに、お互い好きになったからでしょう」

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