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日蓮大聖人・池田大作

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天下の大事を担うもの 山田済斎編『西郷南洲遺訓』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  南洲西郷隆盛は、多くの維新の顕官のなかでも、ひときわ大きい光芒の、輝く明星であったといってよい。
 「慶応の功臣」といわれた彼は、維新史の功業を一身に体現して、絶大なる人気を博した一人でもあったろう。彼は明治元年(一八六八年)の秋、北越に連なる諸藩を平定し、薩摩に帰藩するや、文字、どおり「凱旋将軍」として迎えられたのであった。
 だが、踊れる者、久しからずか。──西郷とその一党、はやくも明治六年の「征韓」論争に敗れ、土佐の板垣退助らとともに下野していく。そして、運命の明治十年(一八七七年)、西郷は「明治の賊臣」に身をやつし、苔むす城山の露と消えていった。
 享年五十──まさに、波澗万丈の生涯であった。
 ちょうど一九七七年(昭和五十二年)は、西郷死して百年にあたる。勝海舟とおなじく、彼もまた百年ののちに知己を待つ人であったが、いまだにその評価は定まらない。それほどスケールの大きい人物であったということかもしれない。
2  私は敗戦直後|一切の価値観が未曾有の混乱を呈していたころ、たまたま山田済斎編の『西郷南洲遺訓』を読んだ。
 当時は西郷に対する評価も極端に低かった。戦前の軍国主義教育では、彼は武人の鑑にされていたが、むしろ、それが裏目に出たのであろうか。戦後になってからは、とくに若い人びとには見向きもされなかったようだ。
 ところが『南洲遺訓』を読みすすめるにつれ、私の胸中には、諸家の西郷論とは違うイメージが、くっきりと浮かび上がっていた。そこには、世間の毀誉褒貶など意に介さない西郷の、淡々として赤裸な人生観、処世訓、そして死生観が述べられている。
3   事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用ふ可からず。人多くは事の指支さしつかゆる時に臨み、作略さりゃくを用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗る』ものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる様なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。
  
 これらの遺訓は、明治三年(一八七〇年)、奥羽の荘内藩主酒井忠篤とともに鹿児島を訪れた、菅実秀、三矢藤太郎、石川静正らが、西郷の言行録を荘内に持ち帰って編んだものである。
 維新までは徳川方であった荘内藩にとって、西郷は敵軍の将である。やがて、世は明治の代となり、荘内藩が奥羽征討の官軍に降伏したとき、きわめて寛大な処置をとってくれたのが、西郷であった。そのため、荘内藩は一藩をあげて西郷の崇拝者となっていったのである。
 なるほど、かつての西郷は「詐謀」を用いたかもしれない。維新回天の事業を達成するまでには、京・大坂(当時)において、あるいは江戸市中に、おいて、西郷や大久保利通が機略縦横の策を多彩に展開したことは、周知のとおりである。
 しかし西郷は、荘内藩士の眼には、まさに正道の人、至誠の大人として映じていたのである。ここに西郷という人物の、不思議な魅力の一端がひそんでいたにちがいない。明治十年の西南戦争には、はるばる東北の旧荘内藩からも、西郷の陣列に馳せ参じた者がいたと記されている。

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