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少壮時代の生き方 国木田独歩『欺かざるの記』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  一書の人を恐れよ。
 書を読め、書に読まれるな。
 自己を作る事だ。それには、熱烈たる、勇気が必要だ。
 冒頭の自戒の言葉は、私が昭和二十一年(一九四六年)から翌二十二年ごろにかけて、せっせと書きしるしていた「読書ノート」に見られる一節だ。
 今は懐かしいザラ紙のノートを手にとると、ところどころインクが滲んで判読に困難な字もある。紙が貴重品であった終戦直後は、可愛い小学一年生たちも石盤と石筆をもって字を習ったものだ。茶褐色でもノートの体裁さえあれば、贅沢品の時代である。
 あの敗戦の年(一九四五年)──私は十七歳である。四人の兄を戦争にとられ、残された家族の生計は、五男である私の肩に、ずしりと重くのしかかっていた。四月と五月の空襲で家を二度も焼かれ、父も病気がちであり、結核を病んでいた私は血痰を吐きながら働いた。思えば、苦しい青春の日々であった。
 東京は一面、焼け野原である。ある日、私は神田の古本屋街へ行って、久しぶりに本を手にしてみた。人びとは、光線のように映る活字というものに飢えていた。
 駿河台の丘の上に立って、焼け落ちたビルを眺めていると、私の肩をたたく人がある。見ると、親しくしていた友人の先輩であった。その人は、私に向学の意志が潜むのを確認すると、近くの神田・三崎町にあった東洋商業(現・東洋高校)を紹介してくれたのである。
 さっそく筆記試験を受けた私は、その学校の二年生に中途編入された。兄たちが復員してくるまでは、いやでも働かざるをえなかったので、とうてい昼間の学級には入れなかった。──夜学でもいい、いや、むしろ働きながら学ぶところにこそ生きた学問はあると、ひそかに考えていた。
 敗戦の年の晩秋、友人の紹介で西新橋にある小さな印刷会社に勤めるようになった。仕事が終わると、疲れながらも、せっせと夜学に通ったものである。その帰りに神田へ寄っては、蓄えた小遣いで古本を探し、手に入れるのが、私の唯一の喜びとなった。
 私は主に文学書や哲学書を、夢中になって読んだ。感銘した文章に接すると、すぐさまザラ紙のノートに書き写した。書を読め、書に読まれるな! 自己を作る事だ──そう自分に言いきかせながら、次々と読破していったのは、青春時代の懐かしい思い出である。
2  此頃「少壮」てふ事に付て多少の思想を得たり、大に考究を積んで見んと欲する也。「少壮」々々、思想に於て、感情に於て人間一代の伝記生命の絶頂なり。希望あり、回顧あり、煩悶あり、夢想あり、喜悦あり、悲愁あり、忽ち歌ひ、忽ち泣き、或る者は終に自殺を企て、或る者は遂に堕落の谷底に陥いる、大人、哲人、聖賢、英雄等の少壮時代を見よ、カーライルは如何、ルーテルは如何、而してなんじ自ら如何、社会、宇宙、人間、生命、死、花、月、星、雨、悉く其の新面目を来たし、新解釈を求め来る、少壮時代は混沌時代也、光明と暗黒の戦ひ也、溶解時代也、大人も聖賢も、大宗教も大哲学も、大詩も大事業も、悉く此時代に定まる、此時代は溶解されたる金属の如し、如何様にも鍛はれ如何様にも鋳らるゝ也。一時一分尤も大切なる時聞にして、時を経過し時を誤らば折角熱騰せる金鉄も遂に冷却して、又如何ともし難きに帰す。少壮時代とは十八九歳より廿四五歳迄を吾は指す也。人間必ずしも此時代に完備成熟せんや、只だ大萌芽は此時代に定まる。
3  これは明治の詩人、独歩国木田哲夫の日記として歿後公刊された『欺かざるの記』の一節である。当時、十八、九歳であった私は、文字どおり独歩の言う「少壮時代」の入り口に立っていたのであろう。との一言一句が、すべて我がことのように思われた。
 おそらく長い引用も苦にならず、一気に書き写したにちがいない。われながら一字一画が躍動し、ノートには、もっと先まで筆写されている。

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