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日蓮大聖人・池田大作

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人間愛に燃えた反ナチ闘士 ポエール・フ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  それは、政治家というよりも、人生の総仕上げをしている良き老人というべき人であった。年は七十二歳である。
 その日は、一点の雲もなき晴天であった。今年(一九八一年)の六月十五日のパリは、これほどの暑い日があるのかと感じたくらいである。私たちは、フランス上院を見学した。パリ名所の一つ、リュクサンブール公園内にあるこの上院議場は、さすが全館これ美術館といった風であった。
 水銀柱は、おそらく三十度をはるかに超えていたにちがいない。その燦々とした陽光は惜しげもなくマロニエの葉に降り注いでいた。
2  このような昼下がりに、私はこの重厚で歴史的な建物に、アラン・ポエール上院議長を表敬訪問した。パリ滞在六日目のことである。議長公邸では、ポエール議長の息女と秘書の方が丁重に迎えてくださり、会談に先立って、まず公邸と隣り合わせに位置している上院議場内を、くまなく案内してくださった。折から下院議員選挙の行われた翌日とあって、院内は閑散としていた。
 正直いって建物に刻み込まれた″歴史″の重みは、圧倒的でさえあった。前身はリュクサンブール宮殿。イタリア・フィレンツェの名家メディチ家から、アンリ四世のもとに嫁いできたマリー・ド・メディシスが、夫亡きあと望郷の念やみがたく、フィレンツェ風に造らせたものであるとのことであった。竣工が一六〇〇年というから、優に三世紀半もの年輪を重ねている。その後いくたびとなく増改築され、フランス革命の時代には獄舎にあてられていたというが、なかには、十七世紀の面影をそのままとどめる年ふりた部屋もあった。
 四壁に金箔をあしらい、絵画や肖像をふんだんにちりばめた内装は、美術館のように豪華絢澗をきわめ、往時のアンシャン・レジューム(旧体制)の威をしのばせていた。
 とくに私の心をとらえたのは、この上院が青年時代から愛読してきた作家ビクトル・ユゴーの活躍の場であったことだ。文と行動の人ユゴーは、ナポレオン三世の専制政治を攻撃し、火のごとき熱弁をふるう政治家でもあった。秘書の方の説明に耳を傾け、文豪ゆかりの「ユゴーの部屋」や、彼の横顔を彫った金の銘板をはめこんだ本会議場の議席に目をやりながら、私の脳裏には、不朽の名作『レ・ミゼラブル』や『九十三年』の数々のシーンが駆け巡ったものである。
3  「このような、フランスの歴史をはらんだ建物にあなたを招待できたことは、名誉であり、光栄です」――。
 小一時間の見学の後、再び議長公邸に戻った私を、ポエール議長は、こう温かく迎えてくださった。中背、やや小ぶとりの身体を瀟洒な黒の背広に包み、白髪の温顔に、かつて反ナチ・レジスタンス運動の闘士であった芯の強さをたたえておられた。気品のある挙措からは、すでに古稀を越えた年齢を感じさせぬ矍鑠ぶりがうかがえた。
 「私はあなたのつくられた組織に興味をもっており、その目的についてもよく知っております。かねがね近しくなりたいと思っていました。とくにその人間尊重と平和への理念には共鳴します」とも語られた。
 私は、深い理解を謝すとともに、真実の仏法を基調とする私どもの平和運動、そして私自身の戦争体験をかいつまんで語った。そして「平和や生命尊重という課題については、売名や観念ではなく事実の行動こそ大切である、この信念で動いているつもりです。そうでなくしては、次代を担いゆく青年たちへの、真実の波動にはならないからです」と所懐の一端を述べたところ、議長は深く、大きくうなずいておられた。
 つづいて階上の間へ招かれた。心づくしの料理を賞味しながら、私は、最大の関心事であった議長の若き日のレジスタンス運動の多感な体験を聴きたいと思った。
 議長は、遠く果敢なレジスタンス運動の、激しき忘れ得ぬ昔を思い返しながら、静かに強く語り始めた。
 ――私は、祖国フランスを守りたかった。当時、イギリスに亡命していたドゴール将軍の指示を受けながら、勇敢に戦ったつもりである。また、レジスタンス運動のある地区の責任者でもあった。
 あるとき、私の属していた同志の一人の婦人がナチに捕まりやがて殺されてしまった。その婦人には、十七歳になる娘がいた。彼女もまた、わが同志として戦っていた。彼女は母の死も知らず動きに動いて、ついにまたナチの毒牙にかかり捕まってしまったのである。私は彼女を助けんとして、指令を無視して行動に出てしまった。そのためか、ナチの網にかかり、自分も囚われの身となってしまった。いよいよ銃殺というとき、運良くドイツ軍の爆撃が始まった。とっさのこの事件で、拳銃を持ったドイツ兵も驚き、たじろいだ瞬間、窓から飛び降り、助かることができた。
 議長は涙ぐみながらなおも語りつづけ、私の質問を交えながら、会談は長時間におよんだ。
 「ただ、このときのことを思うと、自分が軽率であったという思いが胸から離れません。胸の痛む一つのいやな歴史でしてね」と――。
 「そのナチに捕まった娘さんは、どうなりましたか」と私は尋ねた。
 議長は静かに首を少し振るだけだった。私は、とっさに直覚した。彼女の一家と、ポエール議長の青春時代の一家とは、親戚以上の、なにか深い絆が秘められていたのではないか、と。
 議長はいくたびとなく「自分は戦争は絶対に起こしてはならないと思っています。あの忌まわしい戦争のために、幾多の犠牲者の死体を見てきました。それが脳裏に刻み込まれています」と語った。私は議長と固い固い握手を、何回も何回も交わした。
 ともあれ、控えめで、一語一語かみしめながら語る口調に、危険にさらされている人、困っている人を見ると、放っておけない性分が感じとられた。これこそ、フランスの伝統に脈々と流れ継いでいるユマニテ(人間性)の本流ではないかと思った。ちょうどユゴーが『レ・ミ、ゼラブル』で描くところのジャン・パルジャンが、市長という立場を危険にさらすのも顧みず、馬車の下敷きになった老人を揮身の力で助け出したように――。
 国際的には無名に近かったポエール議長を一躍″時の人″に押し上げたのは、一九六九年六月、故ドゴール大統領退陣後の大統領選挙であった。上院から立法権を奪う改組案を持ち出すドゴール大統領に対し、ポエール上院議長は執助に反対、思いとどまるよう説得工作をつづけた。しかしドゴール大統領はこれを斥け、改組案を国民投票にかけるという危険な賭けに訴えた結果がドゴールの退陣につながったことは周知の事実である。
 その間、ドゴールへの個人的尊敬にもかかわらず一貫して″ノン″を押し通したポエール議長の声望は一挙に高まり、ドゴール直系のポンピドー候補の、有力な対抗馬にまでのしあがった。善戦むなしく選挙では敗れたが、アラン・ポエールの名は、電光のごとく世界を走ったのであった。
 対談の席で、ドゴールの人物評についてうかがってみた。
 「生涯″戦い″の人でした。常に問題意識をもっていた。フランス国家の権威を世界に高めたが、国民を忘れていた」と。
 「私生活では厳格な倫理観の持ち主だったが、公人としてはずいぶん思いきった動きをしてきた人でした。その政治的老獪さ、マキャベリズムはあまり好きではないが、尊敬の念は今でも変わりません」とも。
 絶えず明快な答えが返ってきた。常識、良識の明快さといってもよい。大統領選のさい「温厚なリベラリスト」と評されたポエール議長の面目は、ドゴールの″英雄″ではなく″常識人″のそれであった。そのことは、機械いじりが好きで、大学を出て鉱山技師になりたかったが、体力に自信がもてず大蔵省入りをしたという来歴からもうかがい知ることができる。酷薄な政治の論理に徹しきれぬ常識、良識――それはまた、レジスタンス運動で苦しい選択を強いられたさいの人間的苦悩と、深く根を通じているといえるであろう。常識人の平凡のなかに、キラリと非凡さをのぞかせている人である。
 語らいは、延べ三時間にもおよんだ。ビクトル・ユゴーやジャンヌ・ダlクについても鋭く、論及の花が咲いた。イギリスの故チャーチル首相にまつわる秘話などもうかがった。
 ポエール議長の弁はなめらかに回転しつづけ、とどまるところをしらないかのようであった。私が感謝の言葉を述べると、「いや、年寄りというものは、昔の話をするのが好きでして……」と、にこやかに笑っておられた。
 最後に私が「日本に、ぜひいらしてください」と言うと、議長は「日本には、まだ一度も行ったことがありません」とのことであった。
 私は重ねて「来年にも、ぜひ発展した日本を見にいらしてください。一見の価値があります」と申し上げた。
 今、病床に臥している夫人に代わって、娘さん、そしてお孫さんともども、″文化の大使″″平和の大使″として、日仏の大きな懸け橋となって来日されんことを祈ってやまない。
 終了後、息女が驚きの表情を浮かべながら語っていたと、後日聞いた。
 「父は元来、口数の少ない人で、このように長時間、人と会ったり、話に興じたりすることは大変稀です。私も、きょうの話は初めて耳にしました」と。

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