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日蓮大聖人・池田大作

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親日感あふれる数学者 蘇歩青・復旦大学…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  上海――。宿舎の錦江飯店から街へ出ると、たちまち一千万の人口を擁するとの大都の活気と喧騒に包まれる。
 一九七八年九月十三日の朝であった。大通りは、人また人の波である。そのなかを縫って復旦大学へ向かった。
 復旦大学は上海を代表する大学である。
 一九〇五年に創設されている三年半前に学術教育交流のために訪問したことがあった。
 キャンパスに入ると豊かな緑が目にうつる。初めて訪れたときは艶陽四月。キャンパスを彩る木立のなかに純白な花を盛り上げた桜もあった。今回は、朝のさわやかな大気のなかで白い光を浴びた木々が、いつか秋の気配をにじませている。
 レンガ色のモ、ダンな建物は、さすがに国際都市・上海にふさわしい。その玄関のところで、蘇歩青そほせい学長が迎えてくださった。
 小柄な身体を中山服に包んでおられる。このときが初対面であった。
 会議室に案内され双方のメンバーが紹介された。私たちの訪中団に随行されるため北京から上海にこられた「中日友好協会」の孫平化副会長も訪中団側に同席しておられた。
 訪中団から孫氏が紹介されると――。
 「孫平化さんは紹介されなくても、皆よく知っています」
 蘇学長がとう言うと、孫氏は「私は蘇先生の後輩です」と話された。二人とも日本に留学されている。
 蘇学長は一九〇二年、
 浙江省平陽県に生まれ、一九一九年、日本に留学。日中戦争の前に孫氏もともに日本で青春時代を送ったのである。
 この日、私は、前回につづいて大学に日本語書籍を寄贈させていただいた。
 蘇学長は大変喜んでくださった。
 贈書式のさいは大学を代表して中国語であいさっされたが、懇談に移ると日本語も交えて話された。大学の日本語教育の現状についても説明され、さらに発展させていきたいと、今後の方向を語られた。
 当時、七十六歳だったが、矍鑠かくしゃくとされ、未来を見つめる壮健さが印象づけられた。
 私が最初に復旦大学を訪問した一九七五年四月からの三年半に中国は激動した。
 毛沢東、周恩来といった新中国の最高指導者が相次いで逝った。文化大革命の嵐のなかの勢力が強かった上海では新教育面で混乱があったという。そうした停滞と混迷を乗り越えて、教育に新風を起こしていきたいという気概が感じられた。
2  この蘇学長と二度目にお会いしたのは一九八〇年春四月、五回目の訪中の折である。北京、桂林を経て、上海から帰国する前日の夕方であった。
 宿舎の錦江飯店の窓から夕日が大空いっぱいに広がり、まことに美しく胸にうつった。蘇学長は、宿舎の私の部屋までわざわざ訪ねてくださった。一年半ぶりの再会である。
 この日は、私たちは日本語で話し合った。
 蘇学長は数学者として著名な方である。
 「先生が数学を学ばれるようになった経緯は?」
 私がこう聞くと、日本留学の体験などを語りはじめた。
 東京高等工業学校で、電気科に学んだ。卒業後、数学を勉強しようと決心して東北帝国大学を受験、合格して仙台に移ったという。仙台といえば文豪・魯迅も仙台医学専門学校に学んでいる。在学中の一人の日本人教師との思い出を書いた彼の作品『藤野先生』は、国境、民族の壁を超えた人間と人間の心の絆を描いて感動的である。
 蘇学長にも「藤野先生」のように深い思い出を残した師があった。一人は東京高等工業学校時代、生徒監をしておられた。「先生は、いつも日本人学生に対して、中日両国は友好関係を保っていくべきであり、決して中国人留学生を差別してはならないと諭しておられた」と『人民中国』中の自記の文で述べている。在学中、関東大震災で学習用具も一切が烏有うゅうに帰したときには、自宅に引き取って、卒業まで勉強をつづけることができるようにしてくれたという。
 もう一人は仙台時代に従学した恩師である。
 当時、中国国内は内戦つづきで、公費留学生への送金が跡絶えがちであった。そのときに恩師は、家庭教師や雑誌の校正、図書館の管理の仕事など、蘇青年のために生活のたつきを求めてくれた。卒業後も大学院の研究生として残し、四か月間の生活費を負担してくれた。
 さらに蘇青年のために奔走し、五か月目から大学の臨時教員養成所の高等代数の講師として迎えた。当時、外国人が教師になるのは異例のことであり、仙台の地方紙には「非帝国臣民、帝国大学講師に」とニュースとして取り上げられたという。
 こうして、祖国を離れて日本に学ぶこと十二年。その間に理学博士の学位をとり、やがて数学の世界で目覚ましい成果を残した背後には、闇中にともし火となった方々の厚い友情があったのである。外国人といえば軽侮の目で見られた当時の日本に生きたにもかかわらず、蘇学長のお話は親日感にあふれでいる。私は、人間的なふれあいというものの根ざしの強さを改めて感じさせられた。
 私と蘇学長の対話は、さらに数学と哲学の関係性、無限大という概念と仏法の無始無終の考え方などにも広がっていった。
 数学の学び方についてもうかがった。
 「私は数学を五十年間教えてきました。どんなことでも『浅い』から『深い』へ、『小』から『大』へ、『やさしいもの』から『難しいもの』へという過程がある。無理することはできないと思う。とくに勉強するには一歩一歩、歩んでいくことです。いつまでも歩きつづけ、自分の最高の目標に達するには、とうていできないと思うこともあるが、そこを我慢して、ある程度いくと開けていく。私はこれが悟るということに通じることではないかと思う」
 蘇学長が今日の大をなされたのは、天与の才に加うるに、やはり営々たる努力があったからであろう。そんなご自身の体験からの言葉である。
 「大学のモットーは?」
 「とくにはありませんが『実事求是』(事実に基づいて真理を究明する)ということでしょうか。それに正直に一歩一歩と教育をする、ということです。着実にやること――それだけです。私はとくにウデも頭もないから、これしかありません」
 あくまでも謙虚でそして気さくで、温かみのある人柄である。若い私に、傾蓋故けいがいこのごとくに接してくださった。
 大学教育の目的、青少年の非行化問題などについても話し合った。氏が最後に力強く、「年はとっても、私は若々しく、生涯、勉強をつづけていくつもりです」と語られた目の輝きが、鮮明に私の脳裏に残ったのである。
 この日、学長の仙台時代の大学の先輩であり、同じ宿舎で生活をともにした茅誠司元東大総長も上海にこられており、これから会うということだった。若き日の友情を幾十年と温め育んでこられたこ人のための時間を私のためにわざわざ割いてくださったのである。
 その後、復旦大学で助教授をされているご子息の蘇徳昌そとくしょう氏が、日本学術振興会の招きで来日されたので、創価小学校の運動会が行われたさいお招きし、お会いした。同年九月のことであった。この日は、私が最初に中国を訪問したさいに出迎えてくださった方々もお招きしていた。今は駐日大使館で働いておられるお二人で、そのご子息にも初めて、お会いした。
 蘇父子をはじめとして、友好の絆は親から子の世代へ広がっていっているのである。
 親の時代、日中関係は最悪の事態にあった。そして今、子の時代には、多くの先人の努力で日中平和友好条約も締結され、日中間の人々の往反は年々盛んになってきている。この友好をさらに孫の代へと継がねばなるまい――。
 運動会で伸びやかに遊び興じる小学生の躍動を、中国の友と見ながら「世々代々」という言葉を私は鮮やかに生命に染めていた。親子二代にわたって友情を深めた蘇徳昌氏もまた同じ思いであったにちがいない。

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