Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

カシミールの″太陽の子孫″ カラン・シ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  昨年(一九八〇年)十月の末、インドのカラン・シン博士と、約一年半ぶりにお会いした。あの、カシミール帽を戴いて、悠揚とした風格のなかに、話しぶりは才気縦横、インド的な深い知性を存分に発揮される博士との再会は、じつに楽しく、有意義なものであった。
 インドでは春にあたる一昨年二月、私は訪印した。このとき、初めて、お目にかかった博士は、私の申し出に応えて来日を約束された。それが今回、実現に至ったものである。
 「インド古来の伝に、命に代えても破約は罷りならぬ、とあります」。渋谷区内にある学会の国際友好会館にヤショ夫人とともに着かれた博士は、一別以来のあいさつを当意即妙に切り出された。
 博士は、政治家であるとともに文墨の人でもある。詩や文はもとより、作曲も善くされる。その著作は哲学、科学のエッセーをはじめ、紀行文から、ドグリー語民謡の訳載、創作英語詩などにまでおよぶ。じつに多彩な人である。また、著名なベナレス・ヒンドゥー大学と、地元ジャンム・カシミール大学の総長を長く務められてもいる。
 来日は、これが三回目とのことであった。そして、今回の訪問地として「北へ行きたい、北海道を訪れたい」との強い希望を寄せてこられた。私どもも、そのご意向にそって旅程を用意していた。
 「私たち夫婦は、ヒマラヤの出身なので」と、博士はその理由を言われた。
 カシミールは、インドの北界にあたる山岳地域で、ヒマラヤ山脈の西端部分はここにある。博士はこのカシミールの王家の出で、藩王ハリ・シンを父とされている。一方、ヤショ夫人も全ヒマラヤの群峰を抜くエベレストを仰ぐネパールの出身である。夫人も王族の家柄で、最後のラーマ藩王の孫娘にあたる。ご夫妻は、いわば、ヒマラヤの山つづきであるカシミールとネパールのプリンスとプリンセス、という間柄であるわけである。
 日本訪問にあたって、周囲からは奈良、京都の見学を勧める声が多かったようである。しかし、お二人は敢然として、北海道行きを主張した。一つには、同じ北国の人びとがどのように寒冷を凌いで生活しているかを見聞したいがため、とのことであった。そして、博士はこうも付け加えた。「あなたは冬の季節に、寒い中国に行かれたことがありますね。それは、あえて困難に挑むためであったと仄聞しております。ですから私たちも、北のほうへ行きます」
 単なる物見遊山には終わらせまい、むしろ北風に向かおう――私どものささやかな招待に対するそんな心情が、私の胸にしみいるのであった。
2  ひとしきりカシミールのことが話題になった。トラが棲息しているという。「打ち明け話ですが」と博士は声を落とした。「私は猛獣は嫌いですが、トラと言われているのです。また″シン″はライオンという意味です」。たしかにシン博士の内には、縞目をきらめかせた猛虎の鋭さがうかがえる。しかし、話しぶりはあくまで気さくで、和やかである。ちなみに、博士は強い自然保護論者で、トラをはじめとする野生動物の保護に力を尽くしてこられている。
 「いや、男は人からトラとか獅子とか言われるような強さがなければ、ダメです」と私は応じた。
 カシミールとは土地の言葉で″蓮華″を意味すると聞いていた。博士によれば、蓮華はヒンズー教に、おいても聖なる象徴であり、繁栄や幸福をあらわす花とされているという。私は、如蓮華在水と因果倶時という二つの原理から、仏教上の蓮華の意味をいろいろとお話しした。
 「サンスクリット語でも、泥沼の中の花という意味です」と博士は言われた。インドの古聖典『バガバッド・ギーター』にも「蓮華の花は水中に咲いても水に濡れることはない。人生もかくあれ」とあるそうである。「私たちも現代の物質文明、享楽世界に染まらず清く生きねばならない、ということですね」と博士は付言された。
 博士の一統が太陽の子孫と呼ばれている、との話も興味深かった。毎朝、太陽を礼拝するという。私は、インドではガンジス河流域から以南にかけては太陽は忌避されるものと聞いていた。それは、とくに南インドなどでは太陽の光線が酷烈に過ぎるからで、むしろ柔らかな月の光が歓迎されるようである。カシミールで太陽が尊ばれているとすれば、それはやはり北方の寒冷な地域だからであろう。
 日蓮大聖人は、最初に南無妙法蓮華経を唱えたとき、太陽に向かって行ったのか、との質問もあった。私はそのように言い伝えられていると同意しつつ、太陽と月をそれぞれ大日天、大月天の諸天善神の働きととらえ、御本尊を拝するなかに感謝を込めていくわれわれの信仰の姿などをお話しした。こんなふうに私たちは説ききたり説き去り、さまざまな話題を縦横に論じ合って、多くの点で意見の一致をみた。
 二十一世紀において人類は生存するか、滅亡するか、という今日最も根本的な問題についても私たちは語り合った。私は、いずれにしても思想、精神面での混乱は避けがたかろう、向こう二十年が人類存亡の岐路といえる、とお答えした。
 「人類の生存には、新しい精神的ルネサンスが必要ということですね」と言う博士に、私も二十年前から生命のルネサンスによる人類の平和と幸福を標傍してきた学会の運動を紹介した。ただ、それには理解よりも迫害が多いことをも述べた。
 すると、博士は「人類が岐路に立つときこそかえって反対勢力は強くなっていくものなのでしょうか」と、釈尊も悟りに近づくほどに″反対勢力″としてのマーラ(魔)が強まっていったと、釈尊のいわゆる″降魔成道″を例に挙げられた。
 私はふと、その前年に博士にお会いしたときの光景を思い浮かべた。それはニューデリーのアショカ・ホテルでのことである。私をインドに招いてくれた政府機関のICCR(インド文化関係評議会)に対して答礼宴を催した折、ご夫妻を主賓としてお招きした。博士は、ICCR副会長でもあったのである。その宴の冒頭、博士は立ってあいさつをされてから、「西洋式のが″乾杯″に代えて」として、サンスクリット語の韻文らしいものを音吐朗々と誦したのである。そのリズムとリズムとのまじわった音声の響きが、強く印象に残っている。その意味は、菩提樹下に瞑想を凝らす釈尊が、次々と襲いかかる魔を降して正覚を得たことを讃えたもので、なにかの経典の一部ではないかと思われた。
 「内面の戦いです」と私は申し上げた。釈尊を襲った魔軍も、まさに成道を遂げんとする釈尊の己心中に起こった現世的な誘惑、煩悩の風浪であったのであろう。魔は己心にも具わると同時に、宇宙にも瀰漫している。この魔の生命を冥伏させ、仏の生命を顕現していく本源的な戦い、それが私たちのめざすところである――と。
 この日、対談は、食事も交えながら三時聞におよんだ。私たちは対話を往復書簡に引き継ぎ、『内なる世界――インドと日本』のタイトルで出版することを約束し合ったのである。
3  翌日も、創価大学で博士にお会いした。この日、博士は折から訪日中のファン・カルロス・スペイン国王夫妻に会われた後、創大で「インドから世界へのメッセージ」と題して精彩ある講演をされたのである。その後の懇談では、「すべての王は民衆から生まれたといえます。民衆から離れてはいけない」と自戒の言葉を述べられたのが印象的であった。
 王家の出である博士はおのずと品格の人、そして人に長たるべき人として生まれたといってよい。九歳から帝王学を躾けられ、十八歳の若さで、ジャンム・カシミール州長官に就き、そのポストを十八年間も務められた。以後、下院議員に転じ、今日まで四期。その間、三たび入閣されている。まだ四十九歳の若さである。やがてはもっと大きな政治的要請があるかもしれない。

1
1