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日蓮大聖人・池田大作

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創造性を生み出す教育へ エリューチン・…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「皆さん方は、私たちの国のすべての大学に入るときは、ドアを足で蹴って入れます。すなわち自由に入れるということです」――相変わらず気さくで闊達なエリューチン大臣の即妙のジョークに、席は、はじけるような笑いに包まれた。本年(一九八一年)五月、三度目の訪ソの折、ソ連高等中等専門教育省に訪問したときの、冒頭の発言であった。私にとって、同高等中等専門教育省に招かれたのも、三度目のことである。
 過去二度の訪ソのたび、それに創価大学でも一度、お会いしているから、つごう四度目の出会いとなった。すこぶるお元気そうで、なによりであった。
 根っからの教育畑の人である。いつお会いしても変わらぬ明るく円満な人柄は、教育という青少年相手の、しかも息の長い分野を司るには格好の人材であると、以前から、お見受けしていた。今回も、会談やそれに引きつづく昼餐会の席で、私どもの催した答礼宴で、あるいはモスクワからフランクフルトへ発つ当日の船上懇談でと、随所にその温かい人となりにふれ、折々の心なごむひとときを送ることができた。なかでも、昼餐会における大臣の次のような体験談は、今もなお私の脳裏に強く焼きついている。
 席上、私は「学生が知的研究を怠りがちになった場合、学生のほうに責任があるのか、教える側に責任があるのか」と、単刀直入に問うた。大臣は即座に答えた。
 「むしろ教える側の責任を問いたい。教師は最後まで努力しなければいけない。私の経験だが、私が講義しているとき、ある学生が居眠りをはじめた。長いイスの端にいたのでイスから落ちそうになって、私は講義をしながら心配しはじめた。そして私は、彼が、なんとか居眠りできないような講義ができないかと考え講義した。彼は居眠りをやめたが、休憩時間に聞いたところ、子供が病気になってしまい夜寝てないという。ですから、学生がたとえ講堂に何人いようとも、教える側は、一人ひとりを相手にしている心構えが欲しい」と。
 まことにエリューチン大臣の面目を美事に彷彿させるエピソードであると、感じ入ったものである。
 V・P・エリューチン高等中等専門教育相は、もう二十数年間もこの要職にあり、ソ連閣僚のうちでも最古参格である。そのことからも、この人の才幹と知遇のほどは窺い知れるといってよい。
 大臣と初めてお会いしたのは一九七四年九月のことであった。日に日に秋の彩りを深めていく並木路を通って、私は、やや年経りた省舎を訪れた。その省舎も、今は新しい建物になっている。
 「モスクワにきてからご健康ですか」
 「ホテルの具合はいかがですか」
 「スケジュールは? 遠路はるばるお越しくださり恐縮です……」
 慌しい旅の空に日を送っている私を気遣われて、初対面のあいさつをそう切り出された。周囲に目を配る濃やかな人柄が窺われる。
 大臣は、一九〇七年生まれというから、そのときは六十七歳であられただろう。鬢髪は霜のように白く染まっている。しかし、大きなゼスチャーを交えての話しぶりは、いかにもエネルギッシュである。その双眸はよく物を言い、威貌であり、威風があった。それでいて絶えず笑みを帯びて、険相は毫も見られない。
 大臣はモスクワ鉄鋼専門学校の出身で、同校の教授を経て一九四五年から五一年まで校長を務めておられる。いわば根生ねおいの教育者である。
 私は、なぜ若き日に工業の分野を志したのか、その動機を尋ねてみた。すると、次のように語ってくれた。
 「革命後のソ連国民にとって最も重要な課題は、国民生活、経済をつくることにありました。この課題の重要性はレーニンが叫んだところのものです。それゆえに私も、コムソモール(共産主義青年同盟)に入ったのです。レーニンの天才は、国内戦争の結果、圏内が崩れていたときに、若い青年に将来を託したことです。私は、レーニンのとの要請に呼応して鉄鋼の方面に進んだわけです」
 この話のうちには、当時のソビエトの状況が素描されている。革命後、国内戦や国外からの反革命干渉戦争と、戦時共産主義体制のもとでの混乱とが相まって、この国の経済は壊滅的な打撃をうけていた。そのため、重化学工業を中心とする工業の振興が叫ばれ、青少年たちには技術を身につけることが呼びかけられた。それを推進したのがレーニンであった。
 大臣は言葉を継いだ。
 「たしかにレンブラントはレンブラントになるべきでしょう。そういう例外はあります。
 しかし一般の人は周囲の影響のもとにコースを選択することが重要でしょう。ソ連では計画的に人材教育を行っています。国民経済の重要性に応じて、各分野の専門家を育成しています」
 ソ連が計画経済の国であることについては、贅言ぜいげんを要しない。ここにおける大臣の言葉は、そのソ連独特の特殊な事情をそのまま語ったものである。計画経済では、工場や技術者、労働者が何人要るか、にいたるまでが事前に策定される。
 「それと同時に、どの青年も好きな職種を選べます。われわれ教育部門の指導者たる責住は、どの種類の職業にも興味をもたせる教育を心がける乙とです。その結果として、われわれの希望どおりに学生が入学してきます」
 大臣はそう付け加えた。今のソ連が職業選択の自由のなかったスターリン時代と違うこともよく知られている事実である。
 私の質問に応じて、大臣はソ連の教育事情を次々と説明してくれた。下から上まで一貫して無料教育制度であること、大学生の七五パーセントが奨学金をもらっていること、夜間大学や通信制を幅広く行っていること、バイカル・アムール鉄道の建設時、若い労働者のために工事とともに移動する教育施設をつくったこと――などである。私にとっては初めてうかがうことも少なくなかった。
 「技術畑だと、専門に閉ざされて人間の幅ができにくい場合があると考えられるが」――私は、少し角度を変えて質問した。
 大臣は二点にわたって答えてくれた。一つは、専門家に対して幅広く人文教育を施すことであり、同時に社会的活動家たらんことを教育することであると。その例として、ブレジネフ書記長が治金の、コスイギン首相が軽金属の技師であるとのことであった。
 ここにも、との国らしい志向性が感じられたのであるが、さらに興味深かったのは、第二に「科学技術の情報」についてふれた点であった。
 それはおびただしい科学技術の情報が流れる今日では、専門家に一定量の情報を提供しても、それがすぐに古くなって、あまり意味をなさなくなる。それよりも専門家自身が情報を見いだし、選別し、自分にとって必要なものを抽出する方法を教えることが大切である、ということであった。
 「今までの情報提供の教育から、方法論の教育をめざしております」と大臣は言う。
 たしかに、流されてくる一定の情報を受けるだけの人間では、創造性の発展は覚束ないであろう。それにしても、まず自由な情報の交流がなくてはなるまい。
 「方法論的教育へと移ることを私は強調しました。これは、常に自分をつくりなおすという精神を教えることが大切、ということです」
 大臣はそう言って、幅広い学問の体得が重要であることを述べられた。
 方法論的教育――それは、要するに創造性を生み出す教育、という意味であろう。そして″常に自分をつくりなおす″とは、常に自分に向かって問いかけるということである。状況に対応して、新しい創造を生み出していく、ということである。
 私は、柔軟性とダイナミズムにあふれた人間教育への志向を、その言葉のうちに感じとって好ましく思った。
 教育において獲得すべきものは学問そのものよりも、むしろ判断力や創造性であるといってよい。知識は教えるが、人間教育は抜き、というのが一般的な弊風である。
 大臣の発言は、そのような教育の在り方に向けられた頂門の一針と受け止めることもできるであろう。
 私たちの語らいはさらに栄え、同行した創価大学の高松和男学長や若江正三教授も交えて、入試制度や生涯教育についても意見を交わすことができた。実り多い一時間半の会見であった。その夜、大臣は、私の主催する答礼宴に出席された。
2  翌一九七五年五月、箱柳の花芽の匂いに包まれる陽春のモスクワで、再び大臣にお目にかかれた。短時間ではあったが、ざっくばらんなあの大臣の口吻に接して、嬉しかった。また、広く明るい窓のほとりに長いテーブルを配置した、寄せ木の床の会議室も懐かしかった。
 このときの訪ソで、モスクワ大学と創価大学のあいだに正式に学術交流の協定が成ったし、私自身もモスクワ大学より名誉博士号を授与されるという二重の栄に浴した。そのことを大臣に心からお礼申し上げ、創大へぜひ一度、とお話しすると、「即答はできぬが、もし日本へ行ける機会があれば、ぜひ創大に伺わせていただきたい」との心強い答えを聞くことができた。
 約束を違えることなく、大臣が創価大学へとられたのは、三年後の一九七八年六月のことであった。「ソ連の大学教育」と題して講演をされ、その後、来学を記念する昼食会に姿を見せた大臣と、固く握手を交わした。
 その胸郭が広い好丈夫ぶりは三年前と少しも変わりはないのだが、ただ、時差の関係や滞日中の繁忙なスケジュールのせいもあろう、それになんといっても七十一歳という年齢でもあられた。モスクワでお目にかかったときに比べると、少し疲れをお見受けしたのはぜひもないことであった。
 いつまでも健康で、お元気でいていただきたい――大臣には心から、そうお願いした。
 ほどなくモスクワに帰着した大臣から書簡が寄せられてきた。その末尾に「私たちの対話がモスクワでつづけられるよう期待します」とあった。今回の訪ソで、その期待にお応えすることができ、私にとっても大きな喜びであった。
 創大のため、また私のために真摯に尽力してくださった、恩義深い方である。日ソ両国を問わず、教育が国家百年の計であるように、私たちの信義と友情もいついつまでも、と念願している昨今である。

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