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日蓮大聖人・池田大作

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芳烈なタゴール精神の香り クリシュナ・…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  麦秋も過ぎて、例年の東京なら梅雨入りしている去る六月(一九八〇年)半ばのことであった。なかなか雨がこず、暑い日がつづいていたある日の午後、インド文学界の泰斗、クリシュナ・クリパラlニ氏が訪ねてこられた。
 七十三歳の高齢であり、浅黒い肌に白髪が引き立っていた。秀でた額と一文字に結ばれた口とは優れた知性の証左であるが、温容なお親しむべきものがある。お会いして数語を交わすうちに、私は、その穏やかな人柄に惹かれていった。
 クリパラーニ氏は、元来は法律家であられた。イギリスに留学して弁護士資格を取っている。それから帰国して、まもなくガンジーの反英独立運動に投じ、獄中生活を経験した。このとき、詩聖タゴールの作品にふれ、それが機縁となって、のちにタゴールが教育事業を営んでいたシャンティ・ニケタンに赴き、そこで教鞭をとるに至っている。やがてタゴールの孫娘にあたる女性と結婚し、晩節の大詩人と数年間の生活をともにされた。
 その氏が著したタゴール伝が白眉の名品とされるのはある意味で当然であったろう。一九五四年、インド国立文学院の創設に参加し、長くその院長の職にあられた。また本年(一九八〇年)三月まで大統領任命による上院議員でもあられた。
 これが三度目の来日という氏は、すでに二か月ほど日本滞在の日々を過ごしておられた。その間、親交のある名城大学・森本達雄教授のもとに寄寓されているとのことであった。その森本教授も同席され、座談の間々に面白いお話をされて、興趣を添えてくださった。たとえば教師時代のクリパラlニ氏は、若き日のインディラ・ガンジー現首相を教えたことがあるそうである。父ネルー首相が娘インディラの教育をタゴールの学園に委嘱したため、とのことであった。
 ともあれクリパラーニ氏は、タゴールの謦咳に親しく接しておられたはずである。私は、この偉大な歌い人の生前の印象を尋ねてみた。
 「私は、タゴールの足もとに座っていたものです」
 氏の答えは、一言のうちにタゴールとの深い人間的な交渉を物語っていた。そして、痩身で端厳な予言者然とした大詩人と、これを師父として仰ぎ仕えるクリパラーニ氏の敬慶な姿とが、おのずと想像されるのであった。
 「さぞ、あなたを可愛がられたことでしょう」
 そう私が問いを進めると、氏は首肯しながら「そのとおりです」と言われた。そして、タゴールの印象を、ご自分の胸裏から一つずつ大切に取り出すように、語られた。
 「もちろん、外貌も素晴らしい美男子でした。とても親切で……常に仕事をし、働き……いつも歌を口ずさんでおりました」
 「人生において興味をもたないものはなく……子供の教育にも深い関心を示したのです。自分の作品が舞台で上演されるというと、そのリハーサルには必ず顔を出し、指示を与えておりました」
 「毎朝四時に目覚め、瞑想静思にひたる習慣がありました。日の出を見ないと気がすまない人でした。ですから″日出づる国″の日本をこよなく愛していたのです」
 伝にあるとおりのタゴール像が彷彿とするようであった。
 その宗教観について私がうかがったところ、「タゴールはグ″私は哲学者ではないし、一貫した哲学体系を持ち合わせているわけでもない″ということを生前、しばしば言っておりました」とクリパラーニ氏は答えられた。タゴールは常に創造的な生活、教育、人生というものの大切さを信じていたのであり、それを″宗教″と呼びうるかどうかはあくまで主観の問題で、宗教としての儀軌はなにひとつつくり残していない、とのことであった。
 「ただ″私の宗教は『人間の宗教』だ″と、タゴールは言っておりました」と、氏は言われた。
 タゴールの精神のなかに、宗教的な願望が強くあったことはよく知られている。しかし、それがそのまま神の礼拝へと向かったのでなく、人間のなかにある至高にして永遠なる、なんらかの本質を鑚仰さんどうする方向をとったようである。
 それははじめ、「梵我一如」を説くウパニシャツド哲学に強く影響されていた。しかし、やがて仏陀の慈悲に共鳴し、大乗仏教の思想に傾倒していったことは事実である。
 ただ、タゴールが大乗仏典のいずれに接したかは知られていないようである。私は、タゴールが法華経を読んだことがあるかどうかを尋ねてみたが、クリパラーニ氏も「それは明確には言えない」とのことであった。
 しかし「タゴールは仏教書をよく読んでいたようです。釈尊について、よく話をしてくれたものです。作品にも仏教説話からとられたものが少なくない。歴史上の宗教的人物で彼に最も大きな影響を与えたのが釈尊であったことは疑いをいれません」と付け加えておられた。
 私は、重ねて″死後の生命″についてタゴールがどう考えていたか、を質問してみた。″個″が次なる″個″に生まれ変わると考えるなら、これは輪廻転生の思想である。あるいは″個″の永遠性は信ずるが、それは死後、永遠なる精神界、あるいは生命の大海に溶け込んでしまう、すなわち″個″としての転生はない、との思想であるのか――。
 クリパラーニ氏の答えは、後者のほうであった。
 「そのご質問は、タゴール自身に対して何度も発せられたものでした。″その答えを私は知らない″と、タゴールは答えるのが常でした。しかし、おっしゃるとおり、彼が生命の永遠性を信じていたことは確かです。死後の生命は、大宇宙という崇高なもののなかに融合した形で生まれ変わることを信じていたといえるでしょう」と。
2  未知の人に邂逅して、互いに共通の問題意識を見いだすのは、心楽しいことである。それは同時に、互いの感情を大いに親密にしてくれることでもある。加えて、クリパラーニ氏の話の展開は、周囲にアカデミズムに富んだ雰囲気をつくりだしていく深みをもっている。
 話題をガンジーに移して、ガンジーの思想が独自の発想になるものかどうか、その淵源を私が尋ねると、
 「ガンジーは″私の言説と行動は、独自のものではない。そこに見える丘と同じように、皆が古くから語っていることなのだ″と言っております」と氏は答えられた。
 考えてみれば、釈尊も自分の発見した真理は、自分の真理にあらず、久遠から常住している真理を発見したにすぎないという意味のことを述べている。ここに共通しているものは、真理に対するきわめてインド的な謙虚きである、と私は思う。
 クリパラーニ氏は言葉を継いで「ガンジーの″独自性″は、古来から語られてきた″善い行為″というものを、未適用の分野に実践していったことです。″政治的自由″″非暴力″″世界的・宇宙的な愛″――これらガンジーの主張は、釈尊の時代から言われてきたことです。ただ、その適用の分野において独自であったということです」と言われた。これも私には味わい深い創見と思われた。
 ふとクリパラーニ氏は話題を変えて、私が一九七五年五月、モスクワ大学で「東西文化交流の新しい道」と題して行った講演にふれられた。東西両文明を結びつける″精神のシルクロード″を、との私の主張は、タゴール宿年の願望と軌を一にしているとのことであった。そして「インドと日本を近づけてアジアを団結させ、さらに西洋との″シルクロード″をつくるべく、尽力してほしい」との激励の言葉をいただいた。
 私も、微力ながら生涯をその方向に賭けて進んでいきたい、とお話しした。
 このほか、アショーカ大王の事跡や、日印問の文化交流の展望なども話題にして、約二時間の会見を終わった。「日本に恋々としているのです」と言う氏と、いつの日にかの再会を期してお別れしたのである。
 ご高齢ではあられでも、まだこれから伸びようとする今年竹のようなみずみずしい求学心をたくわえておられた。そして、芳烈なタゴール精神の香りを残していかれた氏を思うとき、その背後に広がるインド精神文化の奥行き深い土壌に、いまさらのように敬服してしまうのである。

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