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中国の近代化に駆ける科学者 周培源・北…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  北京大学の周培源学長は、物理学者として世界的に著名な方である。近代化を急ぐ中国の科学技術の分野で、最も重要な責務を担っている人物といってよい。
 初めてお会いしたのは、一九七四年十二月、私が二度目に訪中した折であった。北京空港に私を出迎えてくださった大学、中日友好協会の方々のなかで、そのひときわ白髪の鮮やかな、知性に富んだ人民服姿が印象的にうつった。
 このとき、まだ副学長であられた。じかに言葉を交わす機会にはあまり恵まれなかったが、大学主催の歓迎宴をはじめ、日本語書籍の贈呈式、学生の皆さんによる歓迎の夕べといった行事の席には、学長とともに列せられていた。
 北京にいたある日、宿舎に大学の首脳の方々が訪ねてこられたことがあった。創価大学との教育交流計画について、いろいろ語り合ったのである。そのとき、周副学長がこう言われた。
 「去る六月には私は海外出張のため大学には不在で、大変に失礼しました。今回こうしてお会いでき、心から喜んでいます」と。
 私の最初の中国訪問は、これより半年前のことである。そのとき、北京大学を訪れたが、周副学長にはお目にかかっていなかったのである。その折、私の訪中の成功を心より祈る、との伝言があった。
 厚手の眼鏡レンズの奥に、いかにも科学者らしい、切れ長の怜倒な眼差しがある。しかし、眉目秀麗といってよい端正な顔立ちには終始、穏やかな笑みが湛えられている。
 容貌は西洋人に通うところもあって、近代性にあふれでおられる。それは、アメリカでの生活経験から磨き上げられたものかもしれない。北京の清華大学を卒業すると、カリフォルニア理工学院に四年ほど学び、博士号を得られたと聞く。その後、もう一度、研究のために渡米されている。
2  当時、中国は文化大革命の渦中にあった。文革が鎮静してから伝えられたことだが、とりわけ教育方面では、極端な洋学排斥、科学技術研究に対する白眼視が強まっていたという。
 科学雑誌の刊行が停まったり、図書館が閉鎖されたりして、科学研究をつづけることはきわめて困難な状態にあった。
 世界の科学技術のレベルを知悉していた周副学長は、長いあいだ、海外研究機関にふれることもできずに、自分自身の研究はもとより、わが祖国の進歩の行く手に深く憂いをもっていたにちがいない。
 いま振り返ってみると、周副学長が言葉も少なく、控え目にしておられた様子が目に浮かぶ。
 わずかに周恩来総理が、近代科学研究の庇護者であった。私が初めて中国を訪れたころには、その配慮のもとに、ようやく研究活動を始められるようになっていた。
 自由な科学研究、近代中国を担う学徒の育成、世界との幅広い学術交流――それらは、暗く閉ざされた時代にあってもなお、周副学長の脳裏に温められていた夢であったはずである。
 一九七五年四月、私が三度目に北京大学を訪れたときも、周副学長は歓迎の人たちのなかにおられて、握手とともに再会を喜び合った。
 それからの中国は、さらに幾嶺もの激動の山を越えた。毛・周両首脳の逝去。やがて四人組支配の終焉、そして彗星のように登場した華国鋒主席の指導体制――。中国は「四つの現代化」を掲げて、近代国家への蝉脱せんだつをめざして巨歩を踏み出すことになった。
 七七年夏、周培源副学長は、学長職にのぼられた。さっそく祝電を打っと、礼状がまもなく届いた。折り目正しい字で、中日間の友好交流に尽力したいとの決意が書きとめられていた。末尾が「敬礼!」の語で結ばれていた。それは「敬具」ほどの意味ではあるけれども、「!」の記号が付されているのが印象的であった。いよいよ時と所を得て、周学長の本領が発揮されるところとなったのであろう。
3  翌年九月――まだ暑気の去りきらぬ初秋の日が、ようやく斜陽になった夕刻のことであった。私は、日本を訪れていた周学長を、聖教新聞社にお迎えした。
 周学長は、中国科学院代表団の団長として来日されていたのである。わが国の学術界、政界の要人との懇談や、優れた研究施設の視察、あるいは自ら講演に立つなど、念願とされていた日本との学術交流に、寧日なく飛び回っておられた。
 じつは、この月、周学長の一行が来日するのと入れ違いに、私は四度目の訪中の途についていた。私が、北京から「日本でぜひ、お会いしましょう」との希望を東京に伝えると、「時間を割いても再会を実現したい」と、周学長は応えてくれたのである。
 東京に帰ってお会いした日は、周学長が日本を離れる二日前であった。慌しい滞日スケジュールにもかかわらず、その端正かつ生彩あふれる顔つきには、秋毫しゅうごうも疲れの色はうかがえない。それに、初めて目にした周学長の背広姿は、颯爽として一段とスマートであった。
 私たちは、固い握手とともに久闊きゅうかつを叙した。三年半ぶりである。私は、度重なる北京大学での厚遇に感謝するとともに、離日を目前にされた周学長に対する送別の宴の意味も込めて、ささやかな食事の席についていただいた。
 歓談は二時間半ほどにおよんだ。北京大学と創価大学とのあいだの教育交流については、互いに、永続発展するように努力することを約束し合った。
 さまざまな話題のなかでも、やはり中国の教育、研究活動の現状にふれると、周学長は眉根に縦皺を寄せて厳しい表情をつくりながら、四人組の破壊行為を回想されていた。
 北京大学の学生数を、現在の八千名から、一九八五年までには倍増させたい。若き後継学徒の養成に力を尽くして中国人民の期待に背かぬようにしたい――等々、意欲的に語られる周学長の姿に、中国の未来の展望を輝かせるものがあった。
 これまでに北京大学には、延べ六千余冊の理工系図書を中心とした書籍を贈呈させていただいた。それが、少しでも役立つものなら幸いである。創大との教育交流も、これに資するところがあれば、と思う。
 互いに、両大学の未来像を語り合い、話は尽きるところをしらなかった。
 「最高に楽しく、愉快なひとときでした」――別れぎわ、周学長はそう言って、握手の手を差しのべられた。名残惜しい一夜であった。

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