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日蓮大聖人・池田大作

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日中国交に尽くした″金蘭″の人 松村謙…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  松村謙三さんに、初めてお会いしたのは、一九七〇年三月十一日のことである。
 晴れた、麗らかな日であった。庭の片側にある木立が、もう芽をふくらませている。少しばかり芝生のある庭に、白いガーデン・チェアが見える。正午前の静寂なひととき、東京の渋谷区内にある学会の建物で、私は、松村さんの来着をお待ちした。
 中国問題の第一人者である松村さんが、私の日中友好に関する発言などに関心をもっておられたことは、かねてより耳にしていた。その清廉潔白な人柄には好感がもてたし、私も一度お会いしたい、と念願するようになった。
 やがて、松村さんの車が着いた。足が悪いとうかがっていた。八十七の高齢でもある。私は、咄嗟にそのご老体を支えた。
 「若い私のほうから出向くのが本来ですのに、わざわざお越しいただいて恐縮です」
 心から、お詫びした。松村さんは寛いだ和服姿であられたように記憶する。案外に肩幅が広く、大柄な体格であられた。
 庭の見える和室へご案内した。ご子息の進氏も同席された。
 時折、穏やかな眼差しをいっそう細めて、嬉しそうに話を淡々とつづけられるのであった。言葉尻が「でございます」「であります」と、非常に礼節正しく、謙虚であられた。
 耳が、やや遠いご様子であった。物静かな言葉や挙止からは、明鏡止水といった心境がうかがえる。それでいて、気骨稜々としてなにものにも動じない、古武士のような風格を漂わせておられる。
 「日中友好といっても、互いに本当のことを話し合うことが大切で、それが厚い信頼につながる」
 そう語る松村さんは、中国首脳と友好を深めつつも、先方に誤解があると思えば、必ずそれを言い切ってこられた。その場しのぎの幇間ほうかんは、すぐそれと見抜かれてしまうからである。
2  中国をはじめアジアを劣等弱小国として見下ろす姿勢は、日本が国を開いた明治以来の伝統的なものである。発想の座標を、常に欧米を軸としてきた。戦後、保守政権もその流弊を継いで、中国封じ込めを旨とするアメリカのアジア政策に全面的に協力してきた。
 ところが松村さんは、早くから中国の巨大な未来性を見抜かれて、平和のためには日中の共存共栄は欠かせない、との信念であられた。私も、全く同感であった。
 突然、松村さんは声を高くして言われた。「池田さん、あなたのような方が、中国に行ってもらいたいのです。私と一緒に、ぜひ行きませんか」と。
 私は「政治家ではありませんが、どうでしょうか」といって、ご好意ではあるがと、辞退した。松村さんは、近く訪中を予定されていた。その言葉をうかがいながら「命を賭けておられるな」との実感が迫ってくるのであった。
 地味で、率直で、毀誉も褒貶も深く意とせず、といった人柄とみえた。そして、短見な政治家の少なくないなかに、珍しいほど、予見者的な先見性の持ち主でもあられた。
 お食事をご一緒しながら談論風発、楽しく世界観を語り合った。お帰りのきわに、訪中の成功にと思って、花束を捧げた。その折の松村さんの嬉しそうな笑顔は、今もって忘れられない。
3  松村さんが、戦後五回目にして最後の訪中に発たれたのは、それから十日後のことである。前年来めっきり衰えている健康状態が危倶されたが、松村さんは周囲の反対を押し切った。
 後で知ったことだが、「生きて帰れぬかもしれない」と覚悟のほどを語っておられたという。ご家族も「本人が中国で倒れるなら本望だろう」と送り出されたようである。
 当時、日中関係は危機的な様相を深めていた。それだけに、松村さんは死に隣した旅を敢行されたのであろう。車イスに乗って出発されたとの新聞報道には、胸を熱くさせられる思いであった。
 翌一九七一年二月、松村さんは新宿の東京国立第一病院に入院された。胆石と聞いたが、病床を去ることができないまま、日数が過ぎていった。
 ある日、使いを立ててお見舞いした。白い蘭の花束をお届けしたのである。松村さんは愛蘭家としても有名であった。花の好きな人は、心の美しい人である。病室には「面会謝絶」としであったが、使いの入室を許され、花束をご覧になって大変に喜んでくださったと聞いた。
 同年七月、歴史的なニクソン訪中計画の報を、松村さんは病床で聞かれた。冷戦外交を軸とするアメリカのアジア政策が、大転換しようとしていた。日本の中国政策の変更も、もはや時間の問題である。寝たきりの状態で、松村さんが「早く首相みずから中国へ行け」と言われたことが報道された。
 それから約一か月後の八月二十一日、松村さんは八十八年の生涯を閉じられた。まことに惜しまれることであった。

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